2011年3月20日 の説教



 聖書

ルカによる福音書 24章1〜12

説教要旨   十字架にかけられた主イエスの裁判において決して同僚たちの決議や行動に賛同しなかったアリマタヤのヨセフや女性たちによって、主イエスは手厚く葬られましたが、三日目の朝、遺体を整えるため香油を携えてきた女性たちは墓穴に主イエスの遺体がないことに気がつきました。香油と言えば、マルコ14章でイエスの頭に惜しげもなく香油を降り注いだ女性がその行いを人々から責められた時、主イエスはその事を「埋葬の準備だ」と受け入れてかばってあげたことがありました。その時、主が「この人のしたことも記念として語り伝えられる」と言われたことは、香油を注いだ埋葬の準備そのものではなく、神がこの女性をかばい守り、受け入れたという関わりの故に覚えられるのであります。私たちは主イエスとどのように関わっているのでしょうか。

 今日の24章の女性たちは大変心厚く主イエスに関わっていたのは確かですが、果たしてこのマリアや弟子たちをはじめとした彼らと主イエスをつなぐものは何だったのかと考えさせられます。そこで現れた天使が示したように、主イエスの話されたことを覚えていないのか、と。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか(24:7)」と。そこで女性たちもようやく主イエスの言葉を思い出したのです。それは命の言葉、約束の言葉、救いの言葉です。

 人間は生活の中で神様との関わりを忘れるのです。それはある意味無理もないことです。しかしそこでしようがないことと放っておくのではなく忘れたことをしっかりと思い起こすのです。 

 例えば聖餐式も、そこで神様の救いの言葉を思い起こす意味がある。主イエスは空っぽの墓の示しにおいてお約束されていた復活を果たされ、私たちに神との関わりを思い出させるのです。 

イースターおめでとうございます。

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