2011年3月20日 の説教



 聖書

ルカによる福音書 24章13〜35

説教要旨   二人の弟子がエマオに向かう途中で主イエスに出会った、という出来事です。当初二人は、それが主イエスだとは気がつかず、夕食を共にした時、パンを裂かれる行いを見て主イエスだと気がついたのです。パンを分かち与える仕草は弟子たちと分かち合っていた頃、よく行われていたと思いますが、二人の弟子たちは何よりも最後の晩餐でご自身の体をパンとして示された様子をどこかで聞き知っていたのかも知れません。私たちの教会でする聖餐式も、主イエスを思い起こすためのものであります。主の十字架の死を覚え、そのみ苦しみこそが私たちの罪との戦いであり救いを与えた出来事であったと思い起こすのです。

 エマオへの途上、見知らぬ人(実は主イエス)の問いかけに対して、主イエスの出来事を伝えたのでありますが、復活については半信半疑のありようで、態度を明らかにしませんでした。「ああ、物分かりが悪く心が鈍く預言者たちの言ったことを全て信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と主イエスは言い、聖書全体にわたりご自身を説明された(25-6)とあります。

 主イエスがかつて弟子たちに何度もおっしゃっていた十字架の苦難のこと、三日目に復活されるということ、その約束が忘れ去られていることを「心が鈍い」という言葉で言い表しました。人間のこころの鈍さとは神の約束を真に受けないことなのです。しかし主イエスに聖書を解き明かされた時、彼らのこころには燃えるような厚い思いがよみがえってまいりました(32)


 私たちもまた、神の言葉を心して聞き、またそれを篤い思いとして主の言葉による希望をしっかりと心にとどめ歩んでまいりたいと願います。

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