2011年3月20日 の説教



 聖書

ヨハネによる福音書 15章12〜17

説教要旨   よきサマリア人の譬え(ルカ1025節)では、強盗に襲われてひどい怪我をして行き倒れた人を助けた人のことを「隣人」という言葉でイエス様は示しました。それゆえに隣人愛という言葉があります。このヨハネ福音書では隣人のことを「友」と表現し、主イエスは「わたしの命じることを行うならばあなたがたはわたしの友である(14)」と示して、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(12)」とお命じになりました。ここでは、ギリシア語では、「掟」や「命じる」という言葉は全て同じ言葉が使われています。

 ところで、イエスさまは、私たち人間を「僕(しもべ)」とは呼ばず、「友」と呼ぶことにこだわりました。神の子ならば人間を僕と呼んでも差し支えないと思われますが、僕は主人が何をしているか知らない。もはや主イエスから神に関わることを知らされているあなたがたは僕ではない、という脈絡でお示しになります。そして、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ…(16)」とおっしゃいます。主イエスの「選び」という言葉がここに現れています。私たちの選び方は、自分にとって良い、好ましいものを選ぶあり方であり、それはともすればその選別の仕方は、一方を裁き、他方を重んじるようなやり方に陥る場合が少なくない。

 しかし、例えば主イエスは婚宴の譬(マタイ22)を通して、ファリサイ派のありように問題を投げかけます。それは普段から罪人や徴税人と交わる主イエスを律法主義によって裁いている彼らの思惑を問うと同時に主イエスの示された「互いに愛し合いなさい」との命令に立てず人を裁く私たち人間のありようをも問われ、主イエスの友として歩むよう呼びかけているのです。

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