2011年3月20日 の説教



 聖書

マタイによる福音書 28章16〜20

説教要旨   「イエスは、…言われた『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』」(18)この一切の権能の前には、国家も民族もなきに等しい。天地は神によって統べ治められているとの表現です。その権能の前には17節の弟子たちのようにひれ伏します。しかしここには疑う者もいます。弟子たちが主イエスから「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と伝道を委ねられた時、ここには疑う者がおり、また敵もいる。しかし「すべての民をわたしの弟子に…」ですから、ここには区別が立てられない。つまり全ての人々と関わらざるを得ない、というわけです。

 主イエスは聖書の中で「関わる」ことをよく教えられました。例えばルカ1025節以下によきサマリア人のたとえがあります。強盗に襲われ行き倒れた旅人のそばを祭司やレビ人が通り過ぎる中でサマリア人だけが彼に優しくした。しかし通常ならばユダヤ人とサマリア人は互いに忌み嫌い合う間柄です。イエス様は互いに相容れない両者の和解と友愛をこの例えに託して何をお語りになるのでしょうか。それは関わることにおいて、究極敵を愛する心が伝道には不可欠であることです

 しかしその一方でこの現実は一筋縄ではいかないことも事実で、マタイ福音書1521節にある、癒しを求めてきたカナンの女性に対して当初イエスは「私はイスラエルの家の失われた羊のもとにしか遣わされていない」(24)と言われた。ユダヤ人としての民族の限界を自ら人間の現実として指し示すとともに、それを超えて関わりを求める女性の信仰を褒め、また自らにおいては自分というユダヤ人を十字架につけておしまいになられた。民族性そのものを十字架においてかなぐり捨て、国家民族を超えた「新しい人間」として自らを指し示されたのです。私たちの国籍は天にあります(フィリピ320節口語訳)私たちの実際の国籍その他の違いはあるけれども、それを越えて一人一人が神様の御前では等しく大事にされる、この神を信ずる信仰においては分け隔てはないのです。

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