2011年3月20日 の説教



 聖書

使徒言行録 2章1〜11

説教要旨   蓮見和男さんの「使徒行伝」の講解には、ペンテコステについての示唆に富んだ指摘があります。「五旬祭の日が来て」(1)を「〜日が満ちて」と訳し、単にその当日が来たというのではない、その日が満ちるまでの間の並々ならぬ思いが含まれるのだという。同じ1節に、「一つになって集まる」とあるが、思いを一つに集まるためには、人は必ず何かを捨てたり、犠牲にして集まる。この時弟子たちは、「自分自身を捨ててきた」と示すのです。またこの集まりの様子は1章に遡ると詳述されていますけれども、その13節によると、弟子たちは集まっていた家の上の部屋に上がったとあります。何かと我々人間は一階で事を済ませようとする。祈りについても仕事か何かをやっつけるように一階で済ませてはいないか?蓮見さんはイエスを信じる者は誰もが言わば心の「二階座敷」を持っていて祈る為にそこに上がるのだという。

 イエスは弟子たちに「父の約束されたもの(=聖霊による洗礼)を待ちなさい(145)」と言われた。弟子たちは、ペンテコステが満ちるまで、自分自身を捨てて臨み、祈るために心の二階座敷に集い、もちろんいつ聖霊が与えられるかは知らぬままに、もういつでも聖霊を受け入れる心は整えられていたのです。

 この人々がペンテコステの超自然的な出来事とともに聖霊に満たされ霊が語らせるままに他の国々の言葉で語りだした時、彼ら自身は何の迷いも躊躇も驚きもなくその出来事を受け入れました。しかしそれに驚愕したのはむしろ客観的な人々でした。神は聖霊において、様々な国の言葉で語らせ、それはどんな小さな国・言語を通してさえも「神の偉大なみ業を」語らせたのです。聞くべきその小さな言葉、小さな声に聞き、神を讃える私たちのペンテコステでありたいと願います。

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