2011年3月20日 の説教



 聖書

ルカによる福音書 7章11〜17

説教要旨   ルカによる福音書1117節には、あるやもめの母親のひとり息子が亡くなった、という出来事が記されています。13節で、主はその母親を慰め、「もう泣かなくてもよい」と言われました。一つの不思議は他の箇所は「イエス」と記してあるのにこの13節だけ「主」となっています。人間イエスの慰めだけに留まらず、神そのものがここにお関わりになっておられることがはっきりと示されている箇所であります。そして神はこの女性を憐れに思われる。直訳的には同情、人間の内臓器を表す言葉が神に用いられている。神という言葉を哲学的に解する人々は古代にあっても、あらゆる感情を神に帰することを排する。神は人間に同情して泣くようなお方ではない、と。神は高みにいて、超然としておられるのだと。しかし主イエスはこの悲しみ痛みを分かち合って、「もう泣かなくてもよい」と慰めたのです。私は死なない、のではなく、十字架において、人と同じく死の苦しみを分かち合って下さった。同じ痛みを感じてくださり、罪の重荷を負い担って下さるのです。そういう方が私たち人間の状況とともに歩んでくださろうとするのです。

 
15節後半に「イエスは息子を母親にお返しになった」とある。息子は生き返ったのです。蘇った命をイエスさま自ら死の水際から取り返してくださった、という表現です。

 
慰めによる「恢復」という言葉を今日の状況に当てはめてみたのは、イザヤ書613節の「灰に代えて冠を」の慰めの言葉をこの箇所に連ねて思い返したからでした。しかし「恢復」の恢の字には「灰燼に帰すところから回復」の意味ではなく、「(元々の状態より)大きく、盛んになる」という意味があることを知りました。

 
主イエスによる恵みがこの出来事に伴って慰められ、ますます豊かになる。これを自分のことのように受けとめる中で、私たちのありようもまた、大いに慰められ励まされ、主とともにあるという立ち位置がまことに確かなものとなることを思い感謝致します。

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