2011年3月20日 の説教



 聖書

フィリピの信徒への手紙 4章1〜3

説教要旨   今日のフィリピの信徒への手紙で、パウロはこの時、牢獄に囚われています。この牢獄の日々がどこまで続くのか。はたまた裁判に引き出され、殉教の死を宣告されるのか。この先のことでどれほど不安に捉えられていたことかと想像します。フィリピ教会の信徒たちは心配して、贈り物をパウロのもとに運ばせ、励ましたのです(4章18)。パウロにはどんなにか嬉しい、心強い出来事だったでしょう。「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たちよ。」そういう呼びかけの言葉がパウロにとって、この人たちを誇り、頼りにしていたか分かる気がします。

 
ところでパウロには心の中に深い憂いがありました。「…涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。(3章18節)」と語っている。「キリストの十字架」は和解の福音であり、罪からの贖い、そして愛による赦しであります。キリストの十字架を受け入れ、その喜びがこの世を支配するようにならなければならない。キリストの平和がみちあふれるようになることがパウロの願いなのであります。そのためにフィリピの人々の伝道の力はまことに信頼に足るものであった。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい(4章5節)。」 

 しかし、フィリピの教会共同体とて、完璧な人々の集まりではなかった。「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます(2節)」とのパウロの言葉は、フィリピ教会の中心的存在であったこの二人の女性に何らかの分裂が見られたこととも思われます。大変心熱い思いやりの深い共同体だが、それでも人間の集まりには違いないわけで、うまの合わない人もいる訳です。けれども互いに違う者であることを認めつつ、尊重し合い、大事なキリストへの思いとして一致し、お互いを喜び合うことはできないものだろうか、とパウロは提言しているのでしょう。

 
「冠である愛する人たち、・・・主によってしっかりと立ちなさい。(4章1節)」マルコ福音書1517節に示された「冠」は主イエスの十字架の茨の冠(荊冠)であります。教会は互いに罪の痛み重荷をこの十字架において分かち合いながら、お互いを愛し、許し合う平和の共同体として導かれ、伝道を託されています。

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