2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 1038~42節

説教要旨   今日のルカ10章38節で、イエスはこのマルタとマリアの姉妹の家に迎え入れられます。マリアは主の足もとに座って、イエスの話に聞き入り、他方マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、ついに我慢できずこう訴えます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」マルタのこの言葉は、私たちにはある意味共感するところであります。もう一つ言うと、ここにはユダヤの律法主義的社会の背景がある。当時のユダヤ社会ではラビが女性に教えることは一般的ではない。主イエスはしかし、ここでは一人の教師としてその禁を破り、女性に教えを聞かせている。五千人とパンを分かち合った場面でも、男女の区別無く教えを聞かせていましたが、聖書にはやはりこの当時のユダヤ社会の限界性を帯びた言葉として、「女と子どもを別にして、男が五千人であった(マタイ14:21)」と記されているわけなのです。

 さてイエスはマルタにこう呼びかけられる「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」マルタの感情的いらだちは、どこにも落ち着きようのない、心が定まることの出来ないありよう、自分にとって自明の理を持ち得ない人間現実ともいうべきものを表しているのではないでしょうか。

 主イエスはここでハッキリと必要なことはただ一つだけ、とおっしゃった。もし主の足もとで話しを聞くのと、主の世話のために立ち働くこととを二者択一の問題とするならば、主イエスにおいての自明の理は前者であると言える。それは「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という言葉に現れています。私たちにおける自明の理は、この言葉をイエスが人間に呼びかける内なる心の声として聞くことであります。マリアのように主の足もとに座りその教えを聞くことの尊さを分かっていながらも、マルタのように律法的、社会的な人間関係に縛り付けられている私たちにはそれを自明の理として受け入れることができないのが現実のありようです。しかしイエスの声を内なる心の声として聞き続けることは必要なことです。主イエスは主がこられたときには、マリアの態度で教えを受けとめるべきことがあなたがたのなすべき、なくてはならぬただ一つの態度なのだよ、と教え示している。その声を自明の声として私たちは聞き続け、主に従う道を模索し始めるのです。

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