2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 1235~42節

説教要旨   「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」今日の聖書の言葉はそう始まっています。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」この「目覚めていなさい」という言葉は主イエスがよく弟子たちに語った言葉でした。それは物事に対して鋭敏な研ぎ澄まされた感覚をもつ、ということではなくて、心の準備のことだと思います。主イエスによって譬えられているこの僕(=人間)は主人()の帰りを心から待ち望んで、ワクワクするような思いをもって備えている。

 ミュージカル「キャッツ」のネコたちはみんな生き生きと輝いていた。もちろん運命に翻弄されることも少なくないけれども、誰もが輝いて、飛びはね、踊り躍動していた。一方この原作者エリオットは彼の詩「虚ろな人々」で、わらが頭にいっぱいつまっている、そんな空虚な人間を描いている。そういう人間になってしまっているのではないかと省みるものであります。目覚めていれば、心ワクワクする喜びに溢れて心の備えをしていれば、この聖書の僕のような気持ちですぐにドアを開けることができる。

 
主イエスはゲツセマネでの祈りの場面で弟子たちに、「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い(マルコ14章37-38節)」とおっしゃいました。十字架に向かう主イエスの祈りの間、弟子たちに「目を覚まして」いて欲しかった。たとえ肉体は弱くとも心をしっかりと主に向けて欲しかったのだが、主イエスと弟子たちとの間にあるズレが大きく、彼らは主イエスに心の眼を向けることは出来なかった。

 
先のエリオットの「虚ろな人々」の詩の中で虚ろであるとは「直視する眼」を失った人間であることが示唆されています。主イエスは、弟子たちが自分を見ていない、ということを知っていた。それは救いを見ない、十字架を見上げることができないことを意味します。再び弟子たちが力強い聖霊の導きによって帰ってくるまで時間がかかることも主イエスは見抜いておられた。それはそのように気がつき、聖霊の働きかけを受けて、心を神様に向ける思いをもつまで私たちは時間がかかる。イエスの弟子たちもそうであったし、私たちもそうである。たとえ今は気がつかなくとも、神様に気がつくべく人間として導かれているのです。神様の恵みあふれた救いの言葉に心を向ける。そのように目覚めゆく人間として立ち歩みゆく私たちでありたいと願います。

礼拝の説教一覧へ戻る