2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 1310~17節

説教要旨   主イエスが安息日に会堂で教えるのはこの福音書で出てきますのはこれが最後の場面です。主イエスはユダヤの会堂で根気強く教え続けられた。主イエスに反対する者たち、具体的に言えば律法学者やファリサイ派の人たちがその様子をじっーと監視していた中で。今日の聖書には「反対する者」として出てきますがそういう人たちが常に主イエスの動向を見張っていた。

 ナチスドイツの時代に多くのドイツの教会がナチスの政策に迎合するようにし向けられていく中で、カールバルトが説教していた礼拝の様子を写真で見たことがあります。ハーケンクロイツの旗を閃かせながら、ゲシュタポたちが礼拝最中に睨みをきかせている。とたんにゲシュタポに連行されかねない。そういう状況で神の言葉を語っている。例えばそんな状況が反対者たちが主イエスを取り囲む状況だったろうと想像をいたします。


 そんな時、
十八年間も病の霊に取りつかれている女性が主イエスに癒しを求めてきた。もちろん主イエスは、この女性を癒します。しかし時は安息日である。ユダヤ人たちにとっては小さな時から労働を禁じられた日であります。安息日に癒しを行ったことは、反対者たちの目にとまり、主イエスを咎める材料となったのです。しかし主イエスは「・・・あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と言い「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と指摘しました。

 「その束縛から解いてやるべきではなかったのか」
は未完了です。女性は既に主イエスによって病の霊から解き放たれているのに、それでは未だに何がこの女性を縛りつけているのか。それは14節で会堂長が「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と咎めた言葉によって、せっかく癒された女性はこの言葉にして一瞬に再び痛みの過去へ飛ばされてしまうのです。その言葉そのものが、魔術的に彼女の精神の自由を剥奪する。主イエスは人々に問いかけ「この女性もアブラハムの娘なのだ」と言ってその共同体に居場所を作ってあげます。アブラハムの娘という言葉、あなたがたの兄弟姉妹なのだと言葉によって。主イエスは人々にたくします。解き放たれることを、解き放つことを。そして自由な愛に満たされるようになるために。

礼拝の説教一覧へ戻る