2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 141~6節

説教要旨   今日の聖書もまた安息日のことです(ルカ14:1)。主イエスはファリサイ派のある議員の家に入られた。そこで水腫を患っている人と出会います。しかし「人々はイエスの様子をうかがっていた」とある。何故「うかがっていた」のか。それはイエスが安息日にしてはならないことをするのではないか、と注目していたのです。それを「イエスの様子をうかがっていた」と言い表してある。そこには主体的に関わろうとする姿ではない、無機質なものが感じられます。律法に対して安息日に対して、神経を使うのは当時のユダヤ社会の状況としては分かりますが、ここに描かれているのは生き生きとした人間の姿なのではなくて、「じっと様子をうかがう」ことしかできない、無機質な人々、無機質な社会のありようです。

 
そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった(3-4)。ここにも「彼らは黙っていた」とある。ここには音のない世界、無機質な世界があります。法の専門家たちやファリサイ派の人々は一言もしゃべらず、反応しません。主イエスのこの語りかけを誰もが聞こえているにも関わらず息をひそめている。まるで自分たちは影絵だとでも言うように。

 
もちろん主イエスの問いかけは言い返しようにも言い返せないほどの正論であったことは事実です。誰もそれに反対できない、圧倒的な力をもっている。それではせめて「あなたの言うことは正しい」と素直に認めてもいいのではないか。それは立場に縛られたものであったのでしょう。つまり主イエスの反対者としての。主イエスを何とか罠にかけてやろう、とする者たちの意図によってしか、彼らは行動できない。声をあげない。音をあげない。そういう動かない世界としてある。この世界は沈黙の世界なのであり、声を押し殺した世界なのであります。

 
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(5)これに対しても反応はない。この教えを聞いたら、安息日であっても、人の命は大事なのだと。少なくとも、そういう喜びの、命を生かす教えがここに込められているはずです。それは反応されなければならない。主イエスの言葉は福音であり、喜びのおとずれであり、救いのおとずれなのだ。その声を聞き喜びの声をあげる者となってゆきたく思います。

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