2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 1425~35節

説教要旨   大勢の人々が主イエスのあとをついて来たときに主は、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない(27節)」と言われました。26節では 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」とも示しています。憎む、とは、捨てると同義でしょう。つまり主イエスの弟子になるならば、「親兄弟を捨てる者」でなければならないと。これが十字架を負うことの一端であると分かります。しかしこれは過酷なことです。ルカ962節にも「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言うような言葉があります。

 
こういう箇所で私は有吉佐和子さんの書いた華岡青舟の妻」を思い出します。全身麻酔薬の治験のために母と妻を犠牲にした医者の実話です。それは論議を呼ぶことではあるが、彼は多くの命の救いのために一つ貫いたということはできる。

 
しかし比べてみると、イエスの十字架には誰一人として従い得なかったのだという結果が残る。そもそもペトロやヤコブ、ヨハネ等のガリラヤの漁師さんたちも投網を捨て、職業を捨てて主イエスに従ったのですが、主イエスの十字架を前にして逃げ去ってしまった。弟子としてやり遂げてはいない。つまりわれわれ人間は、それを完遂することができない。

 
続く主イエスの二つのたとえ(28-30、31-32節)には、「腰をすえて(計算しなさい/考えなさい)」という言葉があります。主イエスの弟子になることは「腰をすえて」決断しなければならないことです。親兄弟を捨てて行かなければならない。これは地獄の選択のような悩みです。華岡青舟にも母と妻を捨てる地獄の選択の前に深く悩み苦しんだのに違いない。そして、主イエスは結局この十字架の前から弟子たちは逃げ去ることを知っておられた。

 
34節には、続けてこういう示しがあります。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」これはマタイ福音書で読むと、山上の説教の5章13節に出てきますが、ここでの冒頭には「あなたがたは地の塩である」と示されています。

 
塩であるならば塩気を持ちなさい。塩味を効かせ続ける、というのはしんどいことかもしれないけれど、やはり主は人間に期待をかける。地の塩としてはあまりに破れ多い欠け多い存在であるかもしれないが、主イエスはそれをご承知の上で弟子としてのこの道を全ての人々に開き示し、この世で救いを求める人々の救霊の業を委託され続けるのです。

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