2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 15章11~32節

説教要旨   本日の箇所は「放蕩息子」の譬話として私たちには馴染みの深いものですが、この話はいろいろなところに入り口があって、自分自身を登場人物の弟、父親、兄と重ね合わせて読むことが出来ます。それとともに昔の教会の言い表し方を一つ考え合わせると、「父なる」神に対応して教会は自らのことを「母なる」教会と呼び慣わしてきた。それは父なる神、母なる教会に私たち(人間)は帰ってくる者なのだということ。私たちは日曜日を礼拝として守り、そこで罪の悔い改めをし、赦しを受け、祝福を受けてこの世に遣わされるのでありますが、神から離れ教会から離れている一週間の間、私たちはいつの間にか言わば放蕩息子のように再び罪を重ねて神様から遠ざかっているのです。それは親から離れるかのように、神から離れている訳ですが、教会はこの譬話の神の姿に倣って一人一人の帰還を待ち礼拝へと招き続ける体勢をもっているのであります。

 
この放蕩息子(=弟)は、父の財産分与を受けて「遠い国に旅立った(13節)」とあります。本当は遊べればどこでも良かったはずなのですが、「遠く」と言われていることの意味は神様のもとから遠く離れてしまった、ということです。放蕩息子の問題は、あるいは贅沢な欲望に満ちた生活であり、その結果として堕落と没落、悲惨を味わうこととなると言えますが、むしろそれは神様から遠く離れたところに自由を求めて、結果として神様の救いを否定しているのだということです。もしこの「神からの離反」の深い罪がなければ、放蕩そのものだけを取り上げての「悔い改めの帰還」だけでは、この譬えの深みには到達し得ないと言えましょう。

 
この譬え話は、一方で、兄の不寛容な態度にも問題を投げかけています。兄は放蕩の限りを尽くして父の身上を食いつぶした弟を何故赦し、歓待するのか、と父親を責めます。「あなたのあの息子があなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」云々(30節)。あなたの「あの」息子は英語の聖書ではthis sonと書かれていますが、それに対する父親の兄に対する呼びかけは「子よ」(My son)なのです。そして兄が弟をthis sonと呼び切り捨てたのに対して、父は兄にYour Brotherと言い換えています。至らない弟であるかもしれないがそれでもたった一人のお前の弟なのだという示しであります。こうして父なる神は赦しの愛を自ら示し、招かれる私たち一人一人への悔い改めと赦しを豊かに導き、私たちお互いの間にもその愛と赦しの心を指し示されるのです。

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