2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 19章11~27節

説教要旨   これはマタイ福音書25章のタラントンの譬えと同じお話であり、主人から預けられたお金で儲けたか・儲けなかったかが譬えのポイントになっています。預けられた1ムナというのは実はみ言葉のことなのだという解釈があります。つまり聖書の言葉のことなのだと。この言葉を布に包んでしまっている男たちのこととは、聖書をうち捨ててしまった人間のことを意味する。神の救いを一顧だにしない。そういう人間の悲しい姿を描いているのだと。

 
この譬話の複線としては、紀元前4年にヘロデ大王の息子アルケラオが領地を治めるためにローマ皇帝からのお墨付きおすみつきを得るためにローマに旅立ったということがあった。しかし彼に反対する50人のユダヤ人たちが皇帝に直訴した。結局彼らは帰ってきたアルケラオによって皆殺しにされてしまう。マタイ2章22-23節にもこの恐ろしい王の名が出てくる。当然主イエスも幼い頃からよく知っている出来事でした。そこで27節の主の言葉にはこの出来事を彷彿とさせるようなアイロニカルな引用が伺えます。しかし恐ろしいだけの王では意味がない。それは見かけだけの恐ろしさにすぎず、死のあとの魂さえも滅ぼされる方(神)をこそ恐れなさい(マタイ10・28)。 「蒔かない所から刈り取る恐ろしい存在」それは神なのだ。それは人間を超えた力を示されるお方だ。けれども、アルケラオと違うところは、この方は人々にムナを預ける。それは神の言葉だと。この神の言葉を自分の中に育てる。そうすればそのことによって祝福される。

 
主イエスを取り巻いてエルサレムに向かうこの一行は11節にあるように神の国の実現を期待する人々でしたが、それはイエスを新しい王として持ち上げることでした。しかしエルサレムで待ち受けていたのは主の十字架の死でありました。人々はその途端態度を翻し、弟子たちは逃げ去りました。1ムナは置き去りにされたのです。しかしこの譬えが示された今こそ、主イエスの厳しい言葉に忠実に聞き従う心を与えられたいと願います。

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