2011年3月20日 の説教



 聖書

 コロサイの信徒への手紙 1章15~23節

説教要旨   本日のコロサイの信徒への手紙は獄中にあったことを示す記述(431018節)があることから、パウロの獄中書簡の1つと言われています。コロサイの町は紀元60年頃の大地震によって崩壊しました。コロサイ教会は来る大地震の際被災地に立つ唯一の教会として立ち働くことを導かれました。それはコロサイの人々とは無縁に思えるようなパウロから手紙が届いて数年後の出来事です。何か唐突な感じのする出来事ですが神はこのコロサイのコミュニティーに対して何を示そうとしたのか、まことに興味深い経緯のようにも思えます。

 さて今日の15-20節のところには、繰り返しリフレーズする言葉が出てくる。
キリストは、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。・・・万物は御子によって、御子のために造られた(15-16)それはラテン神学の中心となる教理で「生まれたが造られず」という独特の言葉によって言い表されることであります。人間にとって遠くて近い神、というような言葉で言い表すこともできましょう。キリストは私たち人間のような被造物ではない。これは私たちから距離を置いた言い方ですが、神を神とすることは、罪深い人間存在を救うことにあっては私たちと全く同じ存在ではできないことであり、当然それは峻別された存在です。しかし御子が本来見えない神を見える姿として、生まれたという表現は私たちには近しさを与えてくれる。ここに目に見える主イエスの十字架が打ち立てられた。このことによって罪の贖いの和解のしるしを目に見える形でお示しになる。見えない神の姿を見える姿にした、ここにこそ、御子イエスの十字架が私たちの平和の礎として(20)、和解の礎として示されていきます。

 パウロが互いに見えざるコロサイの信徒たちに語り得たのは、私たちは会った事はないが、ともにイエスの十字架を見上げている、ということです。そのことによって
主イエスの愛の示しを共に受ける者として励まし合い、支え合って生きていこうではないか、と示されます。

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