2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 11章13~24節

説教要旨   ピシディア州のアンティオキアで使徒パウロとバルナバは、伝道の難しさを痛感していました。使徒言行録の13章44節以降には、いったんは二人を歓迎していたユダヤ人たちが異邦人の群衆を妬み、逆に妨害に走った様子が描かれています。パウロは「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている (46節)」とはねつけたものの、今日のローマの信徒への手紙11章14節にありますように、「何とかして自分の同胞(ユダヤ人)にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と記しています。

 「妬み」というのは誰にでもある感情ですが、それをうまく使うようにゆくのかどうか。例えば兄弟相競わせるということにしても、良きライバルのようにしのぎを削る関係となるようにはうまくゆくものではありません。それはパウロも重々知った上での希望的な思いであると思います。妬みを起こさせ、人心を誘導するかのような方法論に長けている必要はない。そういう意味ではパウロは伝道の方法は決してうまくはなかったけれども、伝道の熱意、これは偽物ではありません。その点はまさしくパウロは本物なのです。それは「ユダヤ人たちの幾人かをでも救いたい」というパウロの心中現れる言葉によって分かります。

 ただここにも問題はあります。近江八幡に近江兄弟社をつくったメレル・ヴォーリズという人も、伝道の熱意にとらえられ宣教者としての使命感燃え立たせて日本に来日したアメリカ人でありました。ヴォーリズの自伝である「失敗者の自叙伝」という本に綴られている根のところには奥村直彦牧師の解説によれば、ヴォーリズ自身が晩年痛感したこととして、自分が展開した諸事業によって近江に神の国をという熱意が人々の心に霊性を育てるまでに至らなかった、というのです。

 パウロがこの手紙の中で、展開していることは、ある意味では「伝道の熱意」をもって語りかけながらと同時に、木にたとえて言うならば(16-22節)、枝葉(人間)であるあなたがたは根(神)に注目しなさい、と語りかけ、神が養分としてあなたがたに何を送っているか(慈しみと厳しさ)を深く思い、神様の愛と正しい裁きによって、育てられ、また思い上がりを捨てて、神を敬い慕う、そういう信仰を育てられるよう、導きを与えています。枝葉は根っこのことを思う。そこから私たちには何が送られてくるか。神の愛であり、神の厳しさでもある。そしてその根っこに敬意をもつ。神を敬うこころです。信仰はそういう神様への細やかな思い、細やかな感情が備わって培われていくものだと教えられます。

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