2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 5章36~47節

説教要旨   よく教会では証ということが求められることがあります。もちろん聖書は読んでいるし、イエス様の物語もよく知っているが、あなたはどのようにキリストを証しますかと問われると、とても困ってしまう。自分は欠け多い人間で、到底イエスをまっすぐに指し示すことができないと思えるにもかかわらず、聖書では、その具体的人間、罪多き人間に、主イエスの証が委ねられる。何故ゆだねることが出来るのかと言えば、聖霊が働きかけて、あなたがたの内なる心に神の宮を作ってくれるのだということです。人間の内にそんな聖なる空間が作られるのだろうか、と不思議に思われるかもしれない。

 しかしイエス様のお弟子さんたちも罪深い、欠け多い者たちでした。ペトロの場合でもヤコブ、ヨハネ、トマスの場合でも、はたまたパウロの場合でも少なくない欠点をもった人々でした。しかし欠け多い人間でありながらも、「主イエスを証する」ことが私たちには許されている。主イエスの伝道委託の言葉が使徒言行録1章8節にあります。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、…地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」あなたがたには聖霊の働く場がつくられている、というのです。

 今日のヨハネ福音書5章37節を踏まえるならば「父のお言葉をとどめる場」があなたがたの内にはある、と主は示されています。しかしこの37-38節には、そのような場をもっていながら「あなたたちは自分の内に父のお言葉をとどめていない」とユダヤ人たちにイエスは語りかける。これはとても悲しい私たちの現実でもあります。私は、自分の内に神様の言葉をとどめ、救い主が世に与えられたという深刻さをしっかりと受けとめているだろうか、とそれは厳しい問い返しになります。ですが、人間には、「自分の内に神様の言葉をとどめるべき、聖霊の働かれる場があるのだ」ということ。ひとりひとりがそのような素晴らしい、神との出会いの場をもっておられる、尊いおひとりお一人なのだということを受けとめて頂きたい。「み言葉が働きかける、自分の内なる心の宮があるのだと」いうことをしっかりと受け入れ歩み行く者でありたいと願います。

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