2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 1章29~34節

説教要旨   ヨハネによる福音書では、バプテスマのヨハネは人々から「あなたは、どなたですか」と問われたことに対して、何者と答えるでもなく、預言者イザヤの言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」と言った(ヨハネ1:23)と示しています。

 宗教改革者マルティン・ルターは「あなたは何者か」という問いは、(神の)一つの試みだったと解釈しました。つい思い上がってしまう事が多い人間存在である我々が、「あなたは何者であるか」という問いの前に立たされる。そんな時にヨハネはきちんと自分の役割を自認していて、誇る風も悪びれる風もなく、主イエスの道備えをすべく人の心に悔い改めを起こす荒れ野で叫ぶ声の役割を果たすと明確に自分の役割を知っていました。

 けれども、その上でヨハネはちゃんと、イエスの方を見ていた人でした。そしてそのことは私たちにも投げかけられる。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(1:29)。」ここに「見よ」と呼びかけます。イエスの方を見なさい、と皆さんに喚起して注意を促している。あなたもしっかりとイエスを見ているか、と問いかける言葉です。それはもはや自分が何者であろうとすることなど、到底ちっぽけなことに思えるような、そのような圧倒的な形で私たちの前にいらっしゃるお方を見なさい、と呼びかけるのです。

 ところで、そのように主イエスと出会ってしまったら、ますます自分がどのように生きるべきかということを私たちは考えざるを得ません。確かにこのお方を前にして自分の存在など全く欠け多い者だと思わされるが、このお方に出会うからこそ、自分は自分の生き様をさまざまに修正することを余儀なくさせられる。

 今日のヨハネ福音書は私たち人間の場を「世」という言葉で表しています。それは人間世界を言い表す言葉です。そしてそれは神の側と対立的な概念であるのですね。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。(1:10)」世はイエスの方を見ないわけなのです。しかし「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(同3:16)」とも示され、つまり同時にこの世は、神の愛の対象であるわけなのです。

 「世の罪を取り除く神の小羊」は神の愛の表現として、小羊に込められた罪の贖い、贖罪としての犠牲の小羊、しかしてそれが十字架に死ぬことによって、世を贖う神の愛の現れが示されていく。

 ヨハネは「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証しした(1:34)。」と示しました。ここに「見よ」という呼びかけが神の愛を心から受けとめるべく促された上で、あなたの歩むべき道をゆきなさいと、示される思いがいたします。

礼拝の説教一覧へ戻る