2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 1章35~51節

説教要旨   バプテスマのヨハネは36節にも「見よ、神の小羊だ」と示し、自分の弟子であった二人の者たちを惜しげもなく、主イエスに同行させます。もしヨハネが一つの単なる宗教的なカリスマであったならば、決して自分の弟子を譲り渡したりはすまい。ヨハネには、主イエスという方こそ、自分が道を備えるべく神から示されていた方だと分かっています。二人の弟子はこの「見よ」という言葉に動かされていった、ということが分かります。このヨハネ福音書という聖書の書物には、この「見る」という事柄がとても重要な役割を果たすのです。それはヨハネ自身のひとつの信仰の表明にもなり、またヨハネの弟子たちを動かす命令というか、促しにもなりうる。とても大切な言葉です。そしてこの「見る」ということは、主イエスのふるまいにもあらわれます。

 イエスはこの二人を見て「何を求めているのか」といわれる。それは具体的な物質的な何かを求めているというやりとりではなく、精神的なやりとりを想定しての問いであります。この福音書では、一つの精神的なレトリックというものを読み解いていくようにできている。例えばこの問いに対して、弟子たちはイエスに宿泊場所を聞く。それは一見かみ合わないやりとりだけれども、ユダヤの文学表現では、師の教えを受けるときには、そのところに泊まるというような表現をとるわけです。さらにこれに答えられるイエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われる。それは直には「来なさい。そして見なさい」という言葉で、弟子たちはついて行く。ここにも「見なさい」という言葉の力に動かされていることがあるわけです。ここに精神的なつながりが持たれ、イエスのもとに泊まるほどの互いの受け入れがなされます。

 主イエスの弟子たちへの導きにも、このレトリックが多用されます。43節以降のナタナエルの導きに際しても「見なさい。まことのイスラエル人だ」という「見よ」の言葉で示されるが、一方のナタナエルが主イエスを理解せず、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言うため、ここにも別の弟子フィリポの口を通して「来て、見なさい」という言葉が示されます。しかし主イエスはこの「見る」という言葉を「知る」「分かる」等ともとれる意味を通して、「見る」という事柄を表層だけで受取らず、まことに主イエスを理解する信仰へと導きます。それは51節にある「もっと偉大なことをあなたは見る」として、その行方に示される十字架と復活の目撃者としての弟子たちの導きに神様が深く関わり、与えていく、という事柄があるわけです。そこに私たちも、弟子たちが導かれたのと同じように、神様の一つ一つの導きの意味を確かめていくことになろうかと思います。

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