2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 2章1~11節

説教要旨   さて本日の聖書の箇所には、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母マリアがその式の列席者として招かれ、イエス、その弟子たちも招かれている。ところがぶどう酒が足りなくなり、厨房の様子を察したイエスの母マリアはイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と相談をするのですが、本来ならばそれはこの家の者たちに話すべきところです。ここに第一のレトリックがあります。この婚宴というものは長くて1週間は続くということなので(例えば士師記14:17)、これは大変困った状況です。

 それに対してイエスは4節で「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」というのですね。この言い方は、母に対しては少々冷たい感じがします。実はここでは、続く「わたしの時・・・」をも含めて、何らかのレトリックであると読み込む必要がある。「わたしとどんなかかわりがあるのです」と言いながらも、イエス様は奇跡を起こされるからなのですね。

 ロシアの小説家ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で3兄弟の末っ子アリョーシャが心から尊敬しているゾシマ長老の遺体の側でひざまずいて祈る場面があります。その時、別な司祭がヨハネによる福音書第二章のカナの婚礼を朗読する。この4節の「婦人よ、・・・」と語ったその時、イエスは静かな微笑みを浮かべてこういった、きっと彼は柔和な微笑みを浮かべたに決まっている、とドストエフスキーは記している。恐らく母マリアとイエスの間にはこの4節のイエスの言葉を合図とするレトリックがあった。それが水を酒に換える奇蹟の入り口であり、母の求めに対するイエスの承諾の合図と理解するわけなのです。続くアリョーシャの夢にはこの婚礼の宴でゾシマ長老が彼を天国に招いている様子が描かれている。「カラマーゾフの兄弟」では婚礼の宴の奇蹟は天の国の宴席を表し、そこに悔い改めた罪人は誰もが赦され招かれているのだと受け入れられるのです。

 さて葡萄酒に変えられた2-3メトレテスの水瓶は6つもあり、これはいかに婚宴が長く続くといっても逆に余ってしまうことでしょう。思えば5千人にパンと魚を分け与えた奇蹟(6章)の時にも12のかご一杯にあまりが出たと記されていました。しかしこのあまり余るほどの葡萄酒はこの福音を聞く読者への招きでもあるのです。

 更にもう一つのレトリックは実際にこの事情を知らない弟子たちが「イエスを信じた(11節)」と記されているところです。この「弟子」という言葉もまたはこの福音を聞く読者への招きとして向けられている。イエスのわざとその福音を信ずるものはこの婚宴に招かれ祝福され、イエスの弟子とされる栄光に与るのです。

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