2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 2章13~25節

説教要旨   今日の2章14節以降でイエスさまは、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たち、両替をしている者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言って、すべて境内から追い払われました。のちの18節以降でユダヤ人たちは主イエスに、この宮きよめを行った権利のしるしを求めますが、主は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と答えました。それは21節に「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだった」と解き明かされ、そこで弟子たちは、詩編(69編10「神よ、あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている…」)を思い起こし、後々これは我々読み手に、神殿(=食い尽くされているわたし)とは、イエス様の体のことだと、十字架で死んで三日後に蘇る、イエス様ご自身のことだと理解させるものです。

 さて、そのような脈絡も考え合わせつつ、この宮きよめの出来事に「神殿」、「イエス様ご自身の体」、というような表現を見ておりますが、ヘブライ人への手紙には、この神殿ということについてもう一つ考えさせられる表現があります(9章11節)「けれども、キリストは、…人間の手で造られたのではない、即ち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、…御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」更に24節にも「キリストは、…人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」と。ここでそもそも主イエスご自身は人間の手で作られた神殿に何某かの価値を置いているわけではないことが示されている。確かに主は宮きよめをしながらも、「この神殿を壊してみよ」と簡単に言う。そこで言うなればイエスのおこなった「宮きよめ」とは、ハッキリ別の意味をもっているのではないかと考えさせられる。つまり、ユダヤ人たちに対して、あなたがたはここが神の宮だと言っている。もし神様のふところ深い神聖な宮であるというならば、それなりの整え方があろう、と。もしこの現状があなたがたのありようだというならば、そのありようは神様へのあなたがたの心そのものを示すと言われようとしたのではないか。私たちはそこで、自らの内に神様のいらっしゃる心の宮きよめを行うべく導かれているのではないか、と。

 ルカによる福音書19章にはよく知られたザアカイの話がありますが、イエスに呼びかけられたザアカイはすぐさま自分の罪を告白し、悔い改め、そして愛に生きるという三つの決断を19章8節に表しました。私たちもみ言葉の呼びかけに応えて自らの心の宮きよめを行うものとして歩みたいと願います。

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