2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヘブライ人への手紙 4章12~16節

説教要旨   ヘブライ人への手紙4章14節には、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」とあります。ユダヤの大祭司は年に一度イスラエルの民を代表してその罪の贖いを執り行う務めを負います。その人には全ての民を憐れんでそのとりなしを行う高潔な人格がイメージとしてはありますけれども、その大祭司が主イエスの逮捕・裁判にかかわり主イエスを十字架へと追いやったのでした。この手紙では、血も涙もないユダヤの偏狭な民族主義に凝り固まった存在よりも神の遣わす主イエスを真実の大祭司と呼んだのです。彼こそが真実にわれわれ人間の罪を贖う者であるのだと。そのお方はイエス様だという思いがあります。

 まず15節に「わたしたちの弱さに同情できない方ではない」と示す。もともとからだの臓器を表すことばで、ひとの痛みに共感するときに、同じ痛みを感じることを意味します。そこで私たちの弱さからくる苦しみをともに苦しんでくれるお方という意味になるのです。

 更に「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」との言葉は、14節にある「もろもろの天を通過された」につながる。大祭司が贖いの儀式の折り、至聖所へ向かい敷居を隔てる垂れ幕をくぐり抜けるイメージがそこにはあるであろう。それは自らが犠牲となって、死の痛み苦しみを負うまでに私たち人間の弱さと罪深さを荷い苦難に遭われた試練を指すのでありましょう。

 この真実の大祭司イエスのもとなる「恵みの座に近づいてよい(16節)」と私たちに示されている。それは教会の特定の場所を示す言葉として、私たちプロテスタント教会の礼拝堂では神のみ言葉の備えられている場所としての講壇を指す場合もあるが、と同時に信仰の表現としては、神様のいらっしゃる場として捉えてもよいであろう。そこに大胆に近づいてよい、といわれる。主イエスの衣に触れることでその力により癒された女性の出来事(マルコ5章27節)のように、私たちは大胆に主イエスに関わり、その思いを吐露し、癒し贖いを求めてよい。

 レントを迎えた私たちの第一の聖書日課はそのように身近に関わられる神の子の苦難の姿を真実に自らの贖い主として受け取るよう招くみ言葉の優しさにふれる時でもあるのです。

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