2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 9章1~12節

説教要旨   ヨハネによる福音書9章は生まれつき目が見えない人をシロアムの池でイエス様が癒される場面です。しかし目が見えるようになったこの人を人々は詰問し、質問攻めの挙げ句に、13節でファリサイ派の人たちのところへ連行し、その癒しが行われたのが安息日だったと云々し、結論、この人はファリサイ派にたてついた、という理由で村を追放になる。

 イエスは彼の消息を知って、彼と再びお会いになり、「あなたは人の子を信じるか」と問いかけられると「主よ、…その方を信じたいのですが。」と応えた。しかし主イエスはこういう。「あなたは、もうその人を見ている。」(35-37節)。

 この人にとって「見える」ようになったのはまぎれもなくよかったことであるのに、目が開けてからの彼にとってよいことは無かった。せっかく見えるようになったのにそれを喜んでくれる人はない。人々は冷たい目で彼を見返し、追い出す。彼は思ったでしょう。見える世界としてのこの世は闇だと。闇の中を行くようだと。そこで多くの罪深き姿を見るようになった。ところが彼にとって初めて見るべき存在を見た。それが主イエスでした。彼の目は今憐れみ深い神の子を見ています。それは安息日でもなりふり構わず憐れみを与えるお方であった。一方彼は見えるようになって逆に闇を見る。ファリサイ派という闇、人の世の冷たさという闇を。私たちは目の見えなかった彼が闇の中に生きているように錯覚しているが、本当の闇は見える者たちの側にあったということを告白しなければならない。

 「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とのイエスの言葉にファリサイ派は憤慨し、「我々も見えないということか」とくってかかる。イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と示します。

 更に主イエスは「神の業がこの人に現れるため」と示され、ここに因縁や因果応報にとらわれ、人間を縛り付ける考え方を主イエスはスッパリと否定します。この人に愛深い神がお関わりになられ神がこの人を解放する。

 「私たちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」この夜の闇、それはキリストが死んだ日、主イエスが十字架につけられたときにすっぽりと包み込んだあの闇、そしてそれは苦難を指し示す闇、夜であります。それは究極にはキリストを十字架につけるような闇だったわけです。これが我々の闇です。けれども、神のわざが彼に働きかけ、そこに世の光があらわされていく。そこには復活の、蘇りの希望がしるしとして表されていくのです。

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