2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 12章1~12節

説教要旨   マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、と3節にあります。イエスの弟子のイスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか(5節)」とマリアを責めました。当時の労働者が一日働いて得る賃金が1デナリオンと考えられていますから、三百デナリオンは物凄く高価です。ユダは、この高価な香油を主イエスのために無駄遣いした、と非難しているのです。同じ場面をマタイ福音書26章8節でやはり、「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った、なぜ、こんな無駄遣いをするのか」とあり、それは無駄なことだったと決めつけています。この「無駄」に対する非難は一見すると、貧しい人々を支えるという道徳的な美徳としての発想としてでてきます。この高みから、ユダは女性を裁いている。

 このユダのように裁く危険を渡辺善太さんは、「偽善者を出す処」という本の中で、例えばキリスト教会も道徳律のようなものに信徒一人一人が縛られてしまうならば、それはキリスト教会独特の律法主義になってしまう、と指摘しています。そして他人にもそれを強要するようになってしまう。まさしくユダがマリアを責める言葉となってしまう。ヨハネによる福音書はこのユダのありようを暴き、そんなことを言うユダだって、決して貧しい人々のことを心にかけていたからではない。金入れの中身をごまかすような人間なのだ(6節)と指摘する。

 マリアは主イエスにこのナルドの香油をふりかけました。その時、この家は香油の香りでいっぱいになりました。この芳しい、やさしい香りでイエスを包んだマリアの真心をイエスは受け入れて、これから十字架にかかるご自身の埋葬の準備をしたと位置づけられ、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」と優しく受けとめます。それは深い慰めの香りです。マリアなりの不器用な愛の表し方です。それをとめる権利は誰にもない。主を慈しむ愛のこころ。私たちもそれを発露させる私たちなりの表し方があるのだろうと思います。どんな表現になるのでしょうか。ひとりひとりそれは違っていてよいのです。私たち一人一人の心をしっかりと受け止めてくださる方がいらっしゃいます。安心して委ねて歩んで参りましょう。

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