2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 12章20~26節

説教要旨   イエス様は種のたとえをよく用いられましたが、それは小ささを考えさせるものです。例えばマタイ福音書13章31-32節にも「天の国はからし種に似ている。・・・ どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」と示し、続くパン種のことも同じ脈絡で示します。本日のヨハネ12章24節の一粒の麦もまた、とるに足らない小さな一粒です。それはみ言葉の小ささ、主イエスの小ささを言うものだろうとまずは思います。この小ささ、と言いますのは、この世にあっての小ささです。み言葉も、主イエスも、この世にあっては小さなものです。そして、主イエスもまた、小さな者を慈しまれました。マルコ福音書10章では、イエスのもとに連れて来られたこどもたちを祝福なさいます。

 今日の20節のところには、祭りのとき主イエスに会いたいと望んでやってきた何人かのギリシア人がいた、と示されます。彼らギリシア人たちがこのユダヤの大祭である過越の祭にやってくるというのは、少々危険極まりないことだったのではないか。ユダヤの人々の中にあっては彼らもまた「小さな者たち」でした。

 この小さな存在が主イエスに関わるという時。イエスはこうおっしゃいます。「人の子が栄光を受ける時が来た・・・。」この小さな存在はまるで合図のようなものです。イエスにしか分からない「栄光を受ける時」として合図のベルが鳴ったようなものです。「・・・はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この栄光の時は、マルコ14章のゲツセマネの園での主イエスの祈りを思い起こさせます。「父よ、・・・この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この時イエスは「この杯」(十字架の死)取りのけて欲しいことを祈りますが、それは「地に落ちて死ななければ、一粒のまま」であることを思います。「地に落ちて死なずに、一粒のままである」ことは主イエスの小さな願いだったけれど、神の「御心に適うことが行われ」るために、ここに「だが、死ねば、多くの実を結ぶ」との結論が示されることをも思います。

 この小さな一粒の麦の小さな死は「多くの実を結ぶ」ための死であり、罪の贖いに主イエスは十字架におかかりになる。この世的には私たちは確かに命の尊さを思いますが、主イエスの十字架の死は私たちにとって更に重要かつ重大なのです。それは主イエスが私たち一人一人の全てを一心にその罪の重荷を肩代わりされたからです。神の愛のみ心がこの「小ささ」の中で結実し、多くの人々の心を悔い改めと新しい命へと揺り動かしたのです。

礼拝の説教一覧へ戻る