2011年3月20日 の説教



 聖書

 ガラテヤの信徒への手紙 5章13~25節

説教要旨   兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)

 ここには自由という言葉と、仕えるという言葉がありますが、それは通常反対の意味をもちます。原語をあたっても「仕える」という言葉は、もともと「奴隷」という言葉です。そこで思いますことは、ヨハネによる福音書13章の主イエスが弟子たちの足を洗う場面です。この14節に「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」との主イエスの言葉があり、それはお互いが仕える、ということであり、お互いがお互いの奴隷となる、というほどのことを示したわけです。

 今日のガラテヤの手紙でも、パウロが多く使っている言葉はこの「お互い」という言葉です。13節の「愛によって互いに仕えなさい」にもみられるし、逆の意味では、15、26節にも見られます。この「お互い」という言葉が聖書には多く出てきますが、それは主イエスが「お互い」の関係というものを強く意識しているからなのでしょう。先のヨハネ13章8節のところで、ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられたとあります。この「かかわり」ということを大変強く意識しています。但し、このお互いというものは、互いにかみ合ったり、滅ぼしあったりする関係にも堕する。ユダのように裏切る関係にもなる。そういうお互いであるならば、私たちは弱肉強食の世の中で互いに疑心暗鬼となり、人は信用ならぬ、の生き方をしなければならない。

 そういう疑心暗鬼のお互いであることからは、神は私たちを解き放った。互いに解き放たれて、信頼し合うような関係にならなければならない。プライドや自尊心や疑心暗鬼などお互いをしばるものから解き放たれた自由を得た上で、深く信頼し合い、足を洗い合うことが出来るような関係にあって、お互いに仕えることが出来る。ここから「隣人を自分のように愛しなさい」というメッセージは互いに疑心暗鬼によって自分たちを強く縛るものから解き放たれている自由を得た存在となり、互いに愛の絆によって結び合うことができるものです。

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