2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 7章25~39節

説教要旨   本日私たちは教会創立122年を迎え、この教会に連なった多くの兄弟姉妹を覚え、信仰の継承につくされたその道筋を覚えて感謝するときとなっております。

 さて今日のヨハネ7章では、ときに、ユダヤの仮庵祭のさ中でした。この祭りの時エルサレムの祭司は黄金の水瓶によってシロアムの池から水をくみ上げ、神殿の祭壇の上にそれを注ぐ儀式を行ったといわれます。人々はどのような思いでそれを見つめていただろうか、と考えさせられます。

 一方この祭りのさ中、イエスは、ユダヤ人たちにつけ狙われ追われ、更にご自身、身内との関係が思わしくない状態であった(3-4節)。主ご自身がユダヤ人たちから理解を得られていない状況であるのに、イエスの身内は社会的な体面の思いから公の釈明をせよという、無理難題をつきつけているのです。

 1890年代の洛陽教会の草創期には天満教会から幾名かの人たちが転入会してきて、洛陽教会を支えた、ということが示されています。住み慣れた教会から離別し他教会を支えたということは本当にキリスト教会ならではの愛の関係だったと思わされます。

 一方主イエスが相対していた状況は極めて世知辛く、渇いた世の中の関係といえるでしょう。今日の37節で主イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とおっしゃいました。39節にはイエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたと示していますが、それは平たく言えば心の飢え渇きと表現してもよいであろう。弟子たちからは見放され、ご自身も渇いた人間関係の中で苦しむ現実を分かち持っておられる。その叫びは、そのような世の中にありながら、どのようにして心潤うような、霊の豊かさが溢れるようなそういう生き様をなしていくことができるだろうか、と思わされている人々の心に届く言葉であった、と思います。一方では黄金の水瓶から祭司が注ぎだす癒しの光景が展開されていました。その光景は確かに表には人の心のヒーリングになるかもしれませんが、ユダヤの律法主義にがんじがらめにされた人々の生活の束縛から何ひとつ解き放ちはしませんでした。

 しかし主イエスは自ら愛の神を示し、痛み苦しむ多くの人々と共に歩まれたのです。

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