2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 14章8~17節

説教要旨   今日の聖書箇所ヨハネによる福音書14章8節では、主イエスの弟子フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言っています。そもそもこの1節のところには「心を騒がせるな、神を信じなさい」という主イエスの言葉があるのですが、その後イエスの弟子たちが次々とイエスに質問しています。例えば5節でトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と問いかけているが、何故こう言ったのかというと、その少し前の13章36節で既にペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と主に問いかけていたのです。これはラテン語で「クオ・ヴァディス・ドミニ」といいますが、主イエスがいったい何を為そうとされておられるのか、どのような方向にゆこうとされているのかと問う言葉であります。 

 ノーベル文学賞作家シェンキェヴィチはロマンス「クオ・ヴァディス」という作品の筋の中で、迫害の増すローマでの伝道を諦めて引き返そうとするペトロがアッピア街道で主イエスに出会い「主よ、どこへ行かれるのですか(クオ・ヴァディス)」と問いかけた。そうしますと、イエスは「わたしはローマで殉教しようとしている兄弟達のために再び十字架にかかりにいくのだ」と応えられた。この幻からさめたペトロは急いでもと来た道を辿り戻ってローマ兵に捕らえられ、殉教の死をとげるというものです。そして「主よどこに」と問いかけるペトロの心に渦巻いているものは、迫害の暗黒の力、暴力の連鎖のただ中で、主の十字架はあまりにも無力ではないか、との問いかけだと示しています。さすれば主への信仰は力もとないではないか、という不安嘆き。 

 イエスの弟子たちは、主イエスの示される神にいまひとつ確信が持てないので、今日のフィリポも「わたしたちに御父をお示しください」と言うのでしょう。
 これは私たち現代人でも同じくイエスの弟子の問いかけを繰り返すものです。フィリポは素直にこの問いを主イエスにぶつけてくるし、実は主の応えも一見「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とたしなめているように見えますが、逆にこんなに長い間一緒にいて、どうしてこれまでその問いかけを留保していたのか、と応えているようにも見えます。イエスにあっては「わたしを見た者は、父を見たのだ」と示し、「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とまでおっしゃいます。 

 私たちは神に向かって心ざわつく日々の現実の中で、率直に素直に神に向かい合い、「信じなさい」と招くイエスのことばによって導かれたいと願います。

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