2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 20章29~34節

説教要旨   《説教》 高濱心吾神学生
 日本キリスト教団神奈川教区のある牧師が書いた本に、「本当の牧会の内容は、「出会い」にあると私は考える。一人の病を抱える者、心に傷を負ったもの、家庭崩壊の危機にあるもの、いじめや差別に苦しむものなどの「一人」との出会いに勝って大切な務めはない。そこでの出会いは、一人の人間として、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」この関係に徹する事以外ではない。」と書かれていました。

 神奈川県のとある町で開拓伝道を行い、何十年もその教会で牧師として働き続けたその方が考える牧会者の仕事とは、「社会で様々な思いを抱きながら生きている人と出会い、共に生きる事。」であると言うのです。一人の人と共に泣き、共に笑う事、出会いを通してその人の生に思いを寄せて行く事が牧師の務めなのだと学ばされました。果たして、自分自身が既に出会っている人々との出会いを喜びとして受け入れているか、交わりを厚くしているかを思わされました。

 今日の聖書箇所にある、「深く憐れんだ」「憐れみ」という言葉は聖書が書かれたギリシア語では、全く違う単語が使われています。イエスが二人の盲人に抱いた「深く憐れむ」という言葉は「腸が千切れそうな思いを抱く」という意味の言葉です。イエスは、二人の盲人の立つ社会的状況と、抱える痛みに対して、ただ単にかわいそうと思うのではなく、腸が千切れそうなほど、激しい悲しみを抱くという事が強調されています。ただ単に顔を合わせているのではなく、二人の盲人と本当の意味で出会っているイエスの姿が記されています。

 昨年起きた東日本大震災の支援活動を通して、「人は一人では生きて行く事が出来ない。」という事を学ばされました。全てを失った被災者の方々が願ってやまなかったのは、今まで共に生きてきた地域の仲間との交わりの復興であり、誰かと共に生きて行くと言う事です。お金や、住む場所や、着るものなども必要ですが、多くの方が共に生きて行く誰かを希求していたように思えます。

今日の聖書箇所で、激しい悲しみを抱いたイエスは、二人の盲人に手を差し伸ばして二人の目を癒していきます。この差し伸べられたイエスの手には、イエスが私達に語って下さった「私は、あなたがたと共にいる。」という思いが込められているように思えるのです。私達、日本の教会も、この社会で様々な痛みや重荷を負いながら生きる一人一人に、「私は、あなたと共にいる。」と、手を差し伸べられるような共同体でありたいと願います。

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