2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 5章19~30節

説教要旨   ルーブル美術館にあるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ 」という絵には角材に細工を施している父ヨセフを蝋燭の光で照らし出すイエスが描かれています。ヨハネ福音書5章19節のイエスの言葉には、「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とあります。ラ・トゥールの絵のような幼い子(イエス)がその父の仕事ぶりを見て思わせるのは、子は見よう見まねで父のまねをするが、決して親のようにはうまくゆかないところにある「無力さ」というものであり、それは「父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」という主の言葉に表れています。

 それが父なる神と子イエスの関係に表れているが、続く20節前半では「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」とあることによりイエスが神の子として立つのは神に愛されているゆえ、この無力さを超えて神の業が主イエスに及び神の力の業をなすことができるのだ、ということ。
確かに主イエスは自らを十字架につかせる形で死に服された。これは無力さの表れであるとともに、神の愛によれば罪の贖い、救いが成し遂げられたということであり、それはしかし、主イエスの復活の業を通して死への勝利、永遠の命への招きを意味するものです。 

 この24節は永遠の命のことを言い、また25節は復活のことを言います。今を生きる私たちに、主イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる」ように導き、それはヨハネ福音書11章 25節に「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」とあるように、共に無力な私たちが神の愛によって力づけられて、なせるわざを、自ら為すように神の力が働いてくださる。そしてそのような愛の関係に主イエスは私たちを招いておられ、ご自身の声を(聖書によって)聞くよう求めておられるのです。

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