2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 6章22~27節

説教要旨   ヨハネによる福音書6章のはじめには、主イエスが大麦のパン五つと魚二匹とを五千人の人々に分け与えた奇跡が記されています。今日の26節で イエスが「・・・あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘するのはこの出来事のゆえであります。キリストの奇跡の力に立ち会った人々は、そこでしるしを見たことによってキリストを神として信じたのではなく、自分たちが満腹できるという人間的な打算によってイエスを自分たちの王として、この特権的な力に依拠するための「人間的な思惑によって」、主イエスを確保しようとする(15節)。

 イエスは避けるために山に退かれ、弟子たちとカファルナウムに逃れるのですが、人々は追いかけてきて主イエスを問いつめました(25節)。

 旧約聖書の出エジプト記には、モーセが奴隷であったイスラエルの人々をエジプトから解放し、荒れ野を旅してカナンの地を目指したことが記されています。しかし16章に至って、イスラエルの人々はエジプトの奴隷時代の食生活の方が今よりはましだった、と不平不満をぶつけました。神様は、この12節で『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と示し、うずらやマナ(天からのパン)をもって、人々に恵みを与えました。大事なのはこの恵みをお与えになった方は一体誰であるか。その方を「知る(12節)」とは、この業を通してその方を「信じる」ということと同義であるということです。

 イエスが五千人の人々に分け与えた奇跡のことも、この出エジプト記に通ずる出来事ですが、イエスのまわりの人々は神を信じるようになるどころか、自分たちの権益のために、イエスを王にしようとしたのです。自分たちに都合のよい王様を立てようとした。イエス様さえ王でいてくれたら、自分たちは日々の食料に困ることはありません。それは神の恵みを感謝して受けるのではなく「人間的な思惑」が優先している罪深い古い人間のありようです。この世的な罪に囚われ、生きざるを得ないところに立たされている。それは朽ちる存在です。キリストを信じず、この現実世の中に折り合いのつく人間。 

 しかし主イエスは信仰を通して我々に真実与えるものは朽ちない、新しく生かされる人間のありようです。神にあって分かたれる真実のマナは、「この世の権益」ではなく神を知り、神を信じる尊い思いに立って歩むことです。

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