2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙一 11章23~29節

説教要旨   この8月、私たちは終戦記念日を迎えるこの月、平和への思いを新たにしたいと思います。イエス様の時代も不穏な戦争の影が色濃く忍び寄る時代、それは最終的には紀元70年のローマとユダヤとの戦争で、イスラエルは滅びます。主イエスはそれを知っておいででした。

 ルカによる福音書19章41節に、「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。・・・』」と嘆かれており、それは「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである(44節)」と示しております。では「神の訪れ」をわきまえる、とはどういうことでしょうか。それはその到来を待ち望むにあたって、心をただし、悔い改めをなしつつ、おのれを奮い立たせて備えることです。そこにくすしき信仰の一致と平和への祈りの一致がある。

 ところで今日の聖書の箇所(第1コリント11章23-29節)は主イエスの最後の晩餐の時の言葉を指し示す使徒パウロの言葉です。それは「引き渡される夜(23節)」のことだった。逮捕され十字架におかかりになる主イエスとの最後の食事のとき。そういう時に主イエスの胸に去来しているものは何だったろうか、と我々は黙想するものですが、それは先のルカ福音書を読み合わせていくならば、エルサレムの滅びの時です。このエルサレムの滅びの時、この滅びは大いなる人間の罪の結果であると見る。どのような罪か。それは、先のルカ福音書の言葉で言うならば、「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」時として示されます。この神の訪れは第1コリント11章では「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです(26節)」との言葉によって示されます。この死を告げ知らせるとは十字架の苦難を受けられた主イエスを知らせ、今や滅びに瀕している人間の罪のありようから悔い改めを求めます。この悔い改めによって、神の訪れを待ち望む「マラナ・タ(主よ来たりませ)」との言葉によって初代の教会の人々は主イエスの平和への贖いへの愛の心によって生き歩んだのです。

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