2011年3月20日 の説教



 聖書

 エゼキエル書 47章1~12節

説教要旨   李善惠宣教師
 今日の聖書の時代的な背景は、エルサレムの城が陥落して14年が経った頃で、バビロンによって捕虜共同体が建てられ、すでに25年が経った時期であります。大略紀元前573年頃と推測されています。そして40章から48章まで、エゼキエルが神殿を3回も調査していることが発見できます。なぜ神様はエゼキエルを通して神殿を3回も調査させたのでしょうか?ここで預言者によって神様が帰還を準備するため、3回も調査させた神様の情熱が感じられます。

 エゼキエルは「彼」によって、神殿の入り口に連れ戻されます。そして2節以降はその「彼」によって、またあっちこっちに引き回される場面が述べられています。そして、1回目の神殿調査と2回目の神殿調査と異なる点に気づきます。それが何かというと、「水」です。ヘブライ語の原典からみると「これは何?なぜ、ここに水があるの?」という意味です。今まで発見されていなかった水が、なぜここにあるのか。

 そして、その水が神殿の敷居の下から湧き上がっていることを気づきます。当時の神殿の意味は、神様が臨在しているところであります。神様がおられるところから、水が湧き上がっているのです。さて、神様がエゼキエルに幻の中で、神殿から水が沸き上がっていることを見せてくださった理由は何でしょう。それはイスラエルの真の回復がまさに神殿から始まると教えているのです。そしてその人が、エゼキエルをあっちこっち引き回すとき、必ず手に測り縄を持っていきました。つまり、無計画にエゼキエルを連れて行ったのではなく、いつも計り縄で距離を測って前にいったのです。

 エゼキエルは神殿の敷居から東の方に約450m行きます。そのとき、「その人」はエゼキエルに水の中を渡らせます。水はくるぶしまでありました。そしてエゼキエルはその水がたくさん増えて、渡ることのできない川、泳がなければ渡ることのできない川になりました。神殿の敷居から始まって水は、ちょろちょろ流れ出る水でしたが、その水がだんだん増えて、もう泳がないと渡れない量になったということです。これは毎瞬間、毎瞬間、私たちの霊的な状態、つまりスピリチュアルの状況を点検しないといけないことを意味します。私たちが信じている神様は、過去の神様ではありません。私たちが過去にどのような信仰を持っていたのかも重要ではありません。ただ、「Here and Now」「今、ここで」私たち一人一人が神様とどのように交わっているのかが何よりも大切であるからです。皆様は今どの辺に留まっているのでしょうか。くるぶし、膝、腰、それとも渡れない川にいますか。どんな形の姿でも私たちの信仰の出発点は教会から始まることです。これが、私たちが毎週教会に来る理由であります。教会は、単純に建物を意味しません。神様が臨在しているところです。神様の臨在を通して、キリストの生命力が感じられるのです。そして命の水によって周辺が変化していきます。恵みの水のパワーです。教会から始まった私たちの信仰を通して、命の水であるイエス様に出会った私たちの生活が、完全に変わっていくことです。命の水によって、荒れ野から豊かな地へ、汚れた海から、きれいな海になりました。命の水のおかげで、周りが豊かに変化していったのです。

 教会に集まることに力を合わせ、また救いの福音を知らない人が、私たちを通して回復される日が来ますように。毎瞬間、神様の恵みに敏感に反応しつつ私たちの中に命の水、恵みの水が流れる歩みになりますように切に願います。

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