2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 8章3~11節

説教要旨   ヨハネ8章3節より、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て「この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」とイエスを罠に陥れようと謀りました。この女性の裁きに主イエスがどういう対応をするか。彼らの言う「モーセの律法」の中で示されたこととは申命記22章22節からのところに現れています。そこには「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」等という文言が見られます。

 しかしイエスはこれには応じず、かがみ込んで指で地面に何か書き始められたのです。ここで主イエスが黙っておられることで、訴えた人々の浅はかさが一層際立ってみえる。神が事柄に介入されないということは一つには人間の思い通りになるということです。一つには十字架がそうだったと思います。そこに私たちは私たち人間の醜い酷いやりくちをさらす。どんなに人間というものは浅はかな存在か。どんなに罪深い存在か。確かに十字架はそれを示すように思えるのです。

 もしそうであるならば、この姦淫の現場で捕らえられた女性に律法学者やファリサイ派が何をしようとしているのか、その醜さを十分に表すために、神はここで沈黙していると言えるのです。さてこの沈黙を経た後、主イエスの思いはどこにあるのか。7節。

 「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』

 かつて山上の説教の中でマタイ5章27節でこう言われたことがあります。

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

 これはとても厳しい、ストイックな倫理観であります。ただこのことばを逆手にとって、頼りにしてみると、「罪を犯したことのない者がこの女に石を投げなさい」に非常に脈絡が深く通ってくることも真実です。誰でも心の中で既に罪を犯していることを指摘し、誰にも罪を裁く権限がないことを示される。ローマ2章1節に「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」とあるように。マタイ7章1節に 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」とあるように。

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