2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 8章12~20節

説教要旨   本日のヨハネによる福音書8章の出来事は仮庵の祭りのさ中でしたが、この祭りの最中には神殿の高い塔に灯火が灯されるとのことです。主イエスが、「わたしは世の光である(12節)」とご自身を示されたとき、人々は闇の中で赤々と燃える炎をイメージしたことでしょう。炎の燃えさかる様子を見ますと、罪深い私たちの現実がよく闇と表現されるそれを清め、悔い改めに導き、希望の光によって新たに生まれ変わらせる。

 ところで20節に「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」と示されています。それはラッパのような受け皿で、入れるとジャランという音がする賽銭箱が並んでいる場所です。このジャラン、ジャランいう音を背景に主イエスは「わたしは世の光」とご自身を示されたことは、世の中の価値観を背にして、この賽銭のジャラン、ジャランいう音鳴り渡るそれとは真っ向反対の事柄に行くのではないか。その音の大小によって財力ある者が讃えられ、貧しい者が過小に扱われる。マルコ12章41節以下に「レプトン銅貨二枚」をささげた貧しいやもめの出来事が示されています。この銅貨の音はチャリンという音しかでないものでしょう。しかし主イエスはそれを見逃さず聞き逃さず、「だれよりもたくさん入れた」と評している。そういう現実の闇の中で全てをささげて神に祈る信仰がある。

 ファリサイ派の人々はご自身を「世の光」として指し示す主イエスに対し、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない(13節)」と言います。ここではファリサイ派の人々は世間を代表しています。あのやもめのレプトン銅貨二枚の音を聞き分けうるのはイエス様のみで、やもめが如何に自分自身を証ししようとも、ファリサイ派にはそれは取るに足らない小さな音にしか聞けないのと同じように。イエスは答えて「・・・わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいる・・・わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる(16-18節)」と示し、なぜなら「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある(17節)」と示しました。但しこの示しにはファリサイ派は納得しなかった事でしょう。

 この20節最後の「イエスの時」はイエスが捕らえられる時、つまり十字架の死へと導く「時」を意味します。この「時」イエスは世の光であったこと、つまりイエスはひとりではなく、父なる神の栄光が伴われていることがはっきりとします。それはイエスのおっしゃるように暗闇の中に一筋の命の光が世の光としてあらわされていたことを全ての人々が悟る時であります。全ての人々が悟り、罪の大きさを嘆き悔い改めを深くし、また真実の神の教えに聞き従う時であります。

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