2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネの手紙一 5章10~21節

説教要旨   ヨハネの手紙(一)5章14節には「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」との言葉がある。この「神の御心」とは何なのか。「御心に適う」とはどういうことなのかを問う。

 イエス様はかつてマルコ福音書10章19節でこういうことを問いました。 ・・・「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」と言った。・・・このやりとりで明らかな「掟」は「神の御心に適う」という事柄を具体的に示すものです。このように古代世界でイエスの時代のユダヤの人たちに行き渡っていた一般的な教えは「十戒」でした。これを知るためには、私たちは出エジプト20章をひもとくわけですが、昔の教会学校では、これを簡略化して次のように唱えていました。

  2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、
  奴隷の家から導き出した神である。
  3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはな
  らない。
  4 あなたはいかなる像も造ってはならない。
  7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
 12 あなたの父母を敬え。
 13 殺してはならない。
 14 姦淫してはならない。
 15 盗んではならない。
 16 隣人に関して偽証してはならない。
 17 隣人の家を欲してはならない。

 前半部分は人が神に対して戒められる事柄、そして後半は人が人に対して戒められる事柄となっています。12節以降の後半は現代法制度社会の基となるような内容になっています。けれども前半部分の人が神に対して戒められる事柄はあらかた見えない事柄です。そこでテーマとされていること、即ち人間が神を蔑ろにして、心の中に起こってくる思い上がり、自分中心主義のようなものは、心の中の問題であり客観的には他人には知り得ないことです。

 そうしますと、この十戒を神の御心に沿う、というテーマで捉え直す場合にも、これは神の御心かどうか、私は神の前に果たして御心に沿っているかどうかは極めて主観的な事柄に拠っているのであり、一人一人が神の前に自覚的に戒める事柄に委ねられています。

 その中で、主イエスは特に安息日の事柄を通してファリサイ派と対立しました。杓子定規に安息日の規定をもって他人を裁くファリサイ派に対して、主イエスは「神のゆるしの心」「隣人への愛の心」をもって「安息日」そのものを塗り替え、ここに神の御心を示していったのです。

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