2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 11章33~36節

説教要旨   ローマの信徒への手紙11章32節には「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは全ての人を憐れむためだったのです」とあります。何故「全ての人を不従順の状態に閉じ込める」必要があったのか。 

 「全ての人」と言えばローマの信徒への手紙には、罪に関しては「全ての人が罪を犯した」という脈絡が3章23節や、5章12節に見られます。罪も不従順も神に対するものですが、「閉じこめる」は私たちの側というより神の所為のように読めます。閉じこめられそこから自由がきかない、人間がここから出ることが不可能という状態です。

 それでは逆に「自分は不従順である」と神に従う方向に向き直り、ここに閉じこめられることにどんな恵みがあるのかを問うてみる。神様はここにどのような方向を示されるのか。

 まずは不従順の深刻さへの問い。ヘブライの手紙12章4節には「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」とあります。ここでは罪の深刻さのことですが、不従順ということをあてはめてみてもよいでしょう。いわく神と戦い徹底的に不従順なところに行き着く人間の心。それは自分を正当化し、この世界のありようと神に対して不満を述べ自分の正当性を主張するところに始まります。 

 33節以降に「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」とあり、イザヤ書40章13節の引用で 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。」と続けられている。これは反語形ですから、決してだれも知り得ないということです。そのように不従順の虜の罪深さ、不従順の罪の深刻さに陥って、はじめて私たちは神の御心、神の憐れみの心の深さが分かるのです。32節いわく「それは、すべての人を憐れむためだった」という事柄が。

 そこで私たちの不従順の罪の一切を負うイエス・キリスト、神の僕にして神の子、神のみ旨に従順に従い、十字架の死へと進まれた方。神ご自身がみ子キリストを十字架に引き渡した。私たちの不従順のしるしとして引き渡したのです。それによってキリストに赦され背負われた者として、私たちは悔い改め神に立ち返り、神への信頼のうちに赦された者に戻ることを知る。つまり神の憐れみの心を知る。言い換えれば、神に向き直ることを知る。神に向かい進路修正をする術を知るのです。ですから神は不従順に閉じこめられた罪深い私たちこそ、神のゆるしと憐れみのところに向き直って歩んでゆける者として私たちを招き導くのです。

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