2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 11章1~16節

説教要旨   今日の聖書の中でイエス様のもとに一つの報が届けられる。それはマルタ・マリアの姉妹その兄弟ラザロが病気であった、という知らせです。3節に姉妹たちはそれを「ラザロ」の実名として語らず、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と伝えています。5節にも「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」という言葉が伝えられている。例えば、ヨハネによる福音書21章15節に復活後のイエス様が、ペトロに「わたしを愛しているか」と問われたように、この「愛する」という言葉内容には、主イエスが示されていることと、私たち人間がその言葉について了解している内容について、ある種の隔たりというか開きがあることがここに示されるのではないか。「愛」ということの深さ広さ大きさについて、まだ私たちは神の心のどれだけをも分かってはいない。それは人間の情の深さ程度のことでしかないことを思うものです。

 さて弟子も引き留める危険なユダヤに主イエスはラザロへの愛ゆえに命がけでそこへ行く。かつて、マタイ16章21節以降でご自身の十字架と復活の予告をされる主イエスを諫めようとしたペトロのように、私たち人間はこの危険に臨もうとする主イエスの心がつかめない。死んだラザロを復活させるという絵空事のためにわざわざ危険なユダヤに行くということが! 私たちの現実にとっては、病気のあとの死、それで終わりです。その先に在る神様の慰めが多くある恵みの復活の事実は見えてこない。けれども、主イエスは4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」という慰めを語っている。9節以降にも「(人は)昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」との言葉があります。この世の中の光での限界は死で終わりです。しかし自分の内に神の光を求めよ、ということです。その内なる光とは闇路を照らすことの出来る光です。 

 何としてもラザロのもとにゆかねば、と主イエスは思う。ラザロと主イエスとのこの愛の関係にこそ神の愛のこころがある。この世のどんな危険、死の待ち伏せているかも知れない闇路をも照らす愛のこころ、内なる光がそこにある。人間は罪深い存在です。自分の名誉に拘泥し、地位に拘泥し、自己本位であり、神の意志をないがしろにする。しかしこの闇路をいく私たちには示されている。内なる神の愛のこころが私たちの目の前を照らすのです。慰め深い、愛の心の光が、私たちの足もとを照らし、神様の慰めと励ましにより大いなる導きをもって確かに歩めるように一人一人を支えるのです。

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