2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 11章28~44節

説教要旨   今日のヨハネによる福音書11章にはイエスが常に親しく、また愛しておられたマルタ、マリア、ラザロの三姉弟を巡っての関わりの経緯が示されています。ラザロの病気の知らせがイエスの元に届けられたに引き続き、既にラザロの死は動かせない事実となっていました。その墓は大きな石で塞がれていたのでした。

 主イエスは、ベタニヤに到着しマルタに会う。20-27節にある会話において、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とのイエスの問いかけに素直に答えるマルタの信仰深さがうかがわれますが、一方こののち39節でイエスが、ラザロの墓石を取りのけなさい」と言われると、マルタは「四日もたっていますから、もうにおいます」と言う。ユダヤ人にとっては死とは忌み嫌うべきことで、主イエスの復活にある力を真正面から受けとめるには、私たちの現実は未だ心もとないと言えましょう。

 この墓石にあらわされた頑なな、固定化された人間の現実は、ラザロの死という状況を確定化して微動だにせず、ひとつも身動きできないかに見える。人間は悲しみに据え置かれたままなのか。死というものにわれわれは抗い、為す術はないのか。この人間状況を固定化するに追い打ちをかけるかのごとき言葉は37節「目の見えない人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた、という。32節で、マリアは泣きながら「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と慟哭する。ここにある主イエスの涙と心の憤りはやはりかつて、マルコ3章で片手の萎えた人を癒すときに怒ったごとく、また悲しんだごとく、命に対するかたくなな固定化した人間の現実であり、それは私たちの心の中にある石のかたくなさ、であります。それと向かい合うときに、イエスは悲しい。もし人々が心の中にあるかたくなな石を取りのけて神のみ業を信じるならばどうなのか。

 40節より、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」…「父よ、…わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。…あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」とある。やがてご自身の十字架の苦難の死をこえての復活がここに重ねあわされ、25節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われた主イエスの真実が、偽り深いこの世のこころもとない仕組みに頑なに拘る私たちのありようを根本から問いかける言葉となったのです。

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