2011年3月20日 の説教



 聖書

 フィリピの信徒への手紙 3章7~11節

説教要旨   パウロは今日のフィリピの信徒への手紙で、自分自身について語っています。この手紙の3章の始まりの部分でパウロは自分も受けた割礼のことをコテンパンに語っておりますけれども、自らの告白の通り、かつてのパウロはファリサイ派の一員であることを誇りにすら感じていたのでした。ところが7節のところで「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」という。それは何故なのか。

 よく言われるパウロの「回心」ですけれども、その意味するところは方向転換、つまり向き方を変えるということです。この出来事は使徒言行録9章のところに出てきます。この時、天からのイエスの声、及び神の力の業が彼に及ぼされました。もしこの時、神様にとって邪魔な者、クリスチャンにとって危険な存在だというならば、パウロはその命とられても当然な存在であったはずです。ところが不思議なことに、極悪人パウロはその存在を認められ、神によって「なすべきこと(使徒9章6節)」が与えられている。後にパウロを助けるアナニアがこのことに疑問を呈すと、神はおして、「…わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言うと同時に「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか(9章16節)」示そうとも言っている。しかし回心以降のパウロは「キリストの名のために苦しむ」こと即ちそれは世の中で苦しみだと捉えられるような事柄が反対に、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています (フィリピ3章8節)」というほどに変えられたのであります。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なすようになった」との言葉はこれまでの生き方からの180度の方向転換でした。しかしその人のありようがたとえキリスト者の価値観から言って塵あくたのようなものだったとしても、神はその存在を塵あくたのように捨てられるのではありません。

 私たち人間は確かに多くの塵あくたを抱えた存在といえる。それは自分が正しくあらんと欲し、自分の求める測りによって自己正当化し歩んでいる場合でもそうで、かつてのパウロの価値観はここにありました。しかしパウロはこう言っています。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(3章9節)」。独善的な自己正当化からキリストへの信仰による義、愛の義へとパウロは方向を変えていったのです。

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