2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 3章21~28節

説教要旨   今日のローマの信徒への手紙の言葉3章23節には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、・・・」とあります。私たち人間には全て罪がある。これが聖書の語る前提です。姦淫の現場で捕らえられた女性をイエスのもとに連れてきた人々が「モーセの律法には石で打ち殺せと書いてある」ことをもって処断しようとした時、主イエスは「あなたがたのなかで罪のない者がこの女性に石を投げなさい」と言われました(ヨハネ8章)。確かに私たちは全く罪深い者です。逆に私たちは罪深いのでこのイエス様の言葉に出会ったのです。そういう私たちが、「(23節からの続)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と、聖書には書いてあるのです。

 ただキリスト・イエスによる贖いの業、神の恵みにより無償で義とされる。ここに人間の事柄が入り込む余地は全くといって良いほどありません。ただ信じるだけ、いやその信じるということでさえ、神のみ手のうちにある。ただ信仰が導かれることを願い神に委ねればよいということです。これを、宗教改革者マルティン・ルターは「ソーラ・フィデイ(信仰のみ)」というラテン語で言い表しました。続けてルターは「ソーラ・グラティア(恩寵(恵み)のみ)」という語も併せて示しています。

 宗教改革当時のカトリック教会は行為義認を主張し神様の前に功徳を立てる(具体的には寄進)ことを要求しました(その対価が免罪符でした)。ルターはこれに反対して、ただ価なしに救われると言いました。神を信じる信仰だけで救われると言った。そして救われるために私たちがすることは、ただ神のみ手に置かれることを願いさえすればよいと言ったのです。信仰でさえ自分が努力して勝ち得るようなものではない。ただ罪を悔い改め、信仰が与えられることをひたすら願うだけでよい、と教えたのです。神様にこれを願う気でさえあれば神様は分け隔てしないから必ず信仰を導きます。私たちは偉くなろうとしなくても良いし、聖人君子のように徳を積まなくても良いのです。ただ願いさえすればよい。そうすればただ恵みのみの信仰に導いて、その人をつねに神の手のうちに置いてくださり、守ってくださるのです。なぜならキリストの贖いの業によって私たちは神の恵みにより無償で義とされたからです。

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