2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 3章7~12節

説教要旨   マタイ3章13-15節では、イエスが、ヨルダン川のヨハネのところへ洗礼を受けに来られたという出来事が示されています。しかしヨハネは思いとどまらせようとして「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と尋ねた。するとイエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とこたえられたということです。ヨハネはこのとき、マタイ3章11節にある「わたしの後から来る方」とはこのイエスなのだと分かっていたのです。ですから、自分が洗礼をイエスに授けることをためらい、イエスに思いとどまらせようとしたわけなのでしょう。

 今日の11節のところに「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とあります。ここでイエス様のなされる洗礼についてヨハネは「聖霊と火」というものをイメージしている。ここでは「焼き払われる」とあるように、罪や汚れを清めることを意味するのでしょうけれども、私たちの現実生活の中で、実際の火というものを示されたときには、それは痛みということと深く関わりあう。

 火の清めのイメージにどのように「痛み」が伴うのか。例えば旧約聖書で、出エジプト記の中に出てくるモーセは当時のエジプト社会の中で危険視されたヘブライ人の中で難を逃れ王宮での豊かな暮らしを保障されていました。けれども、奴隷として重労働についていた同胞をエジプト人を殺してまで救おうとしますが、逆に同胞に憎まれてしまう。殺人という罪の闇と理解されない心の深い痛手を負ってしまう。けれども神はモーセを見捨てず、燃えさかる柴の中からモーセに呼びかけ、苦しみと痛みを知る神としてモーセに伴う、とおっしゃったのです。この時モーセの罪の闇、痛み苦しみは神の炎によって焼き尽くされ、新たな希望をモーセに与えたのです。

 イエスによる洗礼とは、この「聖霊と火」において苦しみと痛みを知る神が私たちを罪や悪から解き放ち、赦し自由にすることなのです。そのために主は私たちの罪を負われその贖いのために十字架を負われた(まるで屠り場に引かれる小羊の様に。イザヤ53章)。それゆえ、一人一人は、一人一人を救おうとする神の愛の決断によって導かれ、この神の決断、「イエス・キリスト」を通して、どんな時もわたしたち愛し抜き、支え抜き、わたしたちを背負い抜く神の決断によってわたしたちの洗礼が導き出されていくのです。

礼拝の説教一覧へ戻る