2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 5章38~48節

説教要旨   「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」・・・ヨハネによる福音書4章9節には、「・・・サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあります。ここでのやりとりは主イエスがサマリアの女性に飲み水を求められたことに始まりました。ユダヤ人はサマリア人とは犬猿の仲なのであって、お互いに接触を避けています。こういう憎しみの感情がこの狭い地域での一つの緊迫した関係を作り出している。

 こういう一つの敵対関係に対して、主イエスは別の箇所、ルカによる福音書10章25節からはじまる「良きサマリア人」の譬えでこう示します。最も大切な律法の教え『隣人を自分のように愛しなさい』について主イエスは一つの譬えをされる。あるユダヤ人の旅人が道の途中で強盗に襲われて半殺しにされて道の途上に倒れている。そこへ通りかかった同じユダヤの同胞の祭司やレビ人は見て見ないふりをして過ぎ去った。ところがそこへ通りかかった一人のサマリア人は、その人を見て憐れに思い、近寄って傷の手当をし、宿屋に連れて行って介抱した。更に、宿屋の主人に介抱を託し、費用は自分がもつとまでいう。さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。イエス様はこう問うています。私たちはもう一つ気がつくことがある。それは普段憎しみ合い争い合っているユダヤ人とサマリア人いわば敵とお互いを見なし合う反目した関係にある彼らが、イエス様の譬えのここでは隣人となっていることに。サマリア人こそが見ぬふりをして通り過ぎても自然である状況だった。むしろ同胞の危機を救うべくは祭司やレビ人だったはずである。しかし彼らは意に介せず過ぎ去る。こういうことは苦しみに対する最も深い感受性の問題だと思うのです。「敵を愛する」この愛ということの中には、敵意を超えて苦しみ痛みに対する最も深い愛の感受性が働くのです。

 今日の46節に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」とある。先の話では自分の同胞さえ愛せないユダヤの祭司やレビ人でしたが、サマリア人のたとえではもはや敵味方を超えて今愛すべき人を知っている、隣人を知っている者の感受性のことが示されていく。十字架にかけられ殺される時イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカによる福音書23章34節)」と執り成されたとき、主は自分を迫害する者を通して、神の愛に敵対する人間の罪という最大の敵に対して赦しの愛の力で打ち勝ったのです。

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