2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 13章8~14節

説教要旨   今日の聖書を見ていただきますと、この8節に「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とあります。この手前の7節には、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」という言葉がある。果たすべき義務がある、という一方で、キリストの愛に関しては、貸借というこの世の道義価値観を適用せず、と示した言葉です。つまり愛は貸しっぱなし、借りっぱなしである。「愛する」ということに貸し借りは存在しないという訳です。

 続く11節には、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ている」と言う。闇の行いを脱ぎ捨てて、争いとねたみを捨て、品位をもって歩もう。主イエス・キリストを身にまといなさいと示されています(~14節)。これらのことが、隣人への、貸し借りのない、惜しみない愛と結びつけられています。ここで、目覚めよと示されることはイスラエルの人々が、愛を、優しさを貸し借り、と考えていた時代に示されていく言葉です。

 例えば旧約聖書申命記24章(律法)には隣人に対してあなたはどのようにすべきかということが書かれています。あなたが隣人に何らかの貸し付けをするとき、担保としての上着は(当時は寝具としても使われることがあったため)夜間は返しなさいということや、畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい、ということが示されています。愛を示す教えとしては尊いものであるけれども、それを義務的に受けとめるありようであるとき、この愛は限りなく貸借に近い感覚をもつようになります。むしろ無償で、あるいは敵対者にも、という愛が律法を完成する。

 更にこの22節には「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい」という言葉がある。かつて奴隷であったのは遠い昔の先祖たちの出来事でしたが、子孫のあなたがたイスラエル人たちは、辛い思いをする人の気持ちが分かる、いや分かるはずだ、というのが律法の一番言わんとするところであった。

 ところがあなたがたは、あのルカ10章の善きサマリア人のたとえで通り過ぎるユダヤの祭司・レビ人のありようではないか。むしろあの例えでは道で怪我していた犬猿の仲であるはずのユダヤ人を親切に介抱し、宿代薬代を厭わなかったあの善きサマリア人のありようこそ、「愛こそが律法を完成する」ということなのです。

 だから目覚めよ、と聖書には示される。本当に聖書のことばが言わんとしていることに目覚めなさい。愛を、優しさを貸し借り、と考える全ての時代全ての人々に、無償の愛のお姿で生まれたキリストが呼びかける言葉です。

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