2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 13章53~58節

説教要旨   主イエスは故郷ナザレにお帰りになった。54節でイエスが「会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟は・・・姉妹は云々」とあります。イエスの母、兄弟姉妹たちもナザレの人々との交わりにある極普通の人々であり、またイエス自身も大工の息子として彼らには馴染みのある存在でした。大工、という言葉の調子には、明らかに蔑んだきらいがあります。当時、主イエスが若い頃請け負っておられたのは、大工というよりは、村の便利屋のようなものだったのではないか、という考察もあります。建物や道具の具合から、お年寄りの利便の世話など、生活全体に渡る幅広い便利屋の仕事は、必要欠くべからざるものであったにもかかわらず、決して人々からは尊い働きとは思われなかったことでしょう。むしろシナゴーグ(会堂)で聖書を説き明かす律法学者が尊敬の衆目を集める。

 ところが主イエスが、そこで教えられたのですから人々は驚いた。人々の関心は何故、大工の息子が、今偉そうにシナゴーグの講壇に立っているのか、ということでした。それを揶揄している。けれども、主イエスは奇跡を行う。この不思議な力はどこから来たのだろう。彼らには受容できない。自分たちが今まで蔑み見ていた人が急に力をもった。それが飲み込めないのです。それを聖書では躓きという(57節)。もともとの言葉は平らな地面に置かれた石のことを言います。予測できない石に躓く。イエスはそういう躓きの石だった。イエスという石を置いたのは神様ですが、人々はイエスを神の子だと認められないから躓くのです。それ故、躓きという言葉は聖書では、神様への不信仰と同義にとられる。

 イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とある。マルコ福音書の並行箇所(6章6節)では、癒しの他には何も奇跡を行えず、人々の不信仰に驚かれた、とある。主イエスは故郷ナザレでこそ人々に受け容れられたい、と望んだことでしょう。それが普通、故郷に人が望むものであればこそ、むしろ神様は故郷喪失者たる、苦難と嘆きの人々に神の御国なる天の国を示される。

 フィリピの信徒への手紙3章20節には、「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」と示される。そもそも主イエスご自身が示される「天の国の譬え」はこの13章に多く示され、その脈絡の中で、真に慰め深い神様の支配される天の御国こそが、私たちの真の故郷として示されることに感謝を深めたいと思います。

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