2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 11章2~19節

説教要旨   ルカによる福音書には、受胎告知としてよく知られた場面があるが、イエス様の誕生を知らせる天使はマリアに、「おめでとう、恵まれた方…(ルカ1章28節)」と語りかけます。そしてマリアはこの言葉に戸惑うのです。クリスマスの最初の祝福は、人間の戸惑いの中にある、ということを心にとどめたい。神様の前に戸惑い、神様の前に迷いが深まる。

 もともと主イエスを神の子と認め、今や牢屋に捕まっていたバプテスマのヨハネは、「キリストのなさったことを聞いて(11章2節)」自分の弟子たちによって、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせた。やはり神の事柄のみ前にあって人間は戸惑う。「キリストのなさったこと」をどのように聞いたのかは知られていませんが、ヨハネの惑いは、ヨハネが主イエスに期待した、神の子ならばこうあらねばならない、ということと食い違っていたのでしょう。あの荒れ野の誘惑の出来事(マタイ4章)に於いても、悪魔が主イエスに向かって問いただしたのは、「神の子なら~したらどうだ」という試みでした。

 4節以降で、主イエスはこうお答えになります「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」主イエスがこのようにご自身について証しをたてられる中で、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいましたが、この「幸い(マカリオイ)」はつまるところ「おめでとう」を意味する言葉であります。山上の説教(マタイ5章)でも主イエスはこの「幸い」という言葉が数多く語られています。「心の貧しい人々は幸いである/悲しむ人々は幸いである…」この幸い(おめでとう)の呼びかけにも人間の心は躓く。この躓きは「腹を立てる」という意味も含み持っています。

 主イエスのありかたを巡って、「神の子ならば、こうではないか。これは私の思う、主の姿ではない。神の姿ではない」そう躓く人々の腹立ちが、やがて主イエスを十字架へと追いやるのですが、そのような罪深い、憎しみ多き私たち人間のありようの中に主イエスは立たれ、人々の心と向き合って言われるのです。あなたに幸いと言いたい。あなたにおめでとう、と言いたい。神の祝福の心をこのクリスマスに私たちは示され深く受け取ってゆきたいと願います。

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