2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙二 1章3~11節

説教要旨   シェイクスピアの翻訳家として知られる福田恒存さんは、人間が立ち会う死とは日常性からの解放であることを言い、日常を超えたその経験によって真に私たちが解放されるのは何かと問うています。

 聖書は生は死であり、死は生であると教える。ヨハネによる福音書11章25節には「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とのイエスの言葉が示されており、ローマの信徒への手紙6章にも「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」との言葉がある。聖書の中では、人間がこのキリストと共に生き死にすることが大事なこととして考えられています。キリストを信じる洗礼については更にローマの6章で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」と示されておりそれこそが「わたしたちが新しい命に生きるため」だと教える。古代教会ではキリストのために苦難を受け殉教することを積極的なこととして捉えています。現実の私たちの生活も苦難と無縁ではあり得ませんが、苦難とは聖書では否定的なことではなく、むしろ必要なことだと教えられます。

 今日の第二コリント一章四節では、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と示し、私たちが苦難を経験することは、同様に苦難に遭う友を慰め励ますべく神から与えられたことなのだと示しています。ここでパウロは苦難の中にある時「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった」と示している。

 テゼ共同体の創始者であるブラザー・ロジェはある時期から、マザー・テレサと共に活動することが多くなったが、ともにハンセン氏病の病院を訪れた時、一人の病人が言った言葉に心動かされたという。「神は私を罰したのではない。私の病を通して神は私を訪れてくださったのだ。神をほめたたえよう。」そのための多くの祈りに支えられてきたこの年の恵みを覚え、来る年も神様の慰めに多く満たされ、また私たちも他者への慰め励ましのための祈りを絶やさず歩み行こう。

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