2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 15章13~21節

説教要旨   パウロは、ローマの信徒への手紙15章14節で、「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています」と記している。パウロはこのローマの信徒について確信したのは何によってでしょうか。そもそもパウロ自身、ローマの信徒たちに会ったことは一度もない(1章10、13節)のに、ここではその人々について、「善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うこと」について「確信」しているというのであります。しかしローマの信徒たちが、一廉のものたちだったのではなく、むしろこの手紙に示される現実とは、パウロが「ところどころかなり思い切って書」かなければならなかった(15節)ほどのもので、信仰を巡って弱い者と強い者との対立や、差別があり、それゆえコリント教会ではないのかと見まがうような分派争いもあったことでしょう。

 そこで思いますのは、神の恵みの業が教会に働きかける、ということです。ローマ教会自体が立派な人格になるというのではなく、地上にある限り教会と雖も罪人の集まりに過ぎないが、神の恵みの働きかけへの望みについては、深く確信をもっているのです。

 そこで示されていくのは器としての人・教会です。使徒言行録には迫害者であったサウロ(パウロ)が神の呼びかけによって回心し、悔い改めたことが記されています。この時、神は「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である(使徒9章15節)」と示しました。ギリシア語では「器」という言葉はほぼ同じ音の「幕屋」と同じく、神の言葉の入れ物です。

 パウロ自身が「器」と呼ばれたことと同じように、神の福音を運ぶために選ばれた教会も、欠け多い者の集いではあるが、互いに主イエスの示された教えに感化を受け、友愛に満ちた隣人としてのお互いの歩みへの祈りをあつく持ち合って、この年の歩み出しとしたいと願います。

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