2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 6章12~23節

説教要旨   宗教改革者マルティン・ルターは、聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみという言葉を宗教改革の標語として表しました。われわれプロテスタントの基を問われるならば、聖書、信仰、恵みに集中する。もちろんこれらを指し示すのはキリストです。聖書の中にキリストを見い出す。キリストに即した信仰、キリストの恵み(第二コリント13:13)。

 今日のローマの信徒への手紙6章14節には、「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」とある。パウロの言葉で「恵みの下にいる」とは神に支配され、神の恵みに支配されているのだということです。それは実際16節以降に、「あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」という問いかけがあり、パウロは人間を何に仕える者であるか、という観点から見ている。それは何かに仕えれば、その法則の下に生きる何かの奴隷となる、という表現をとっています。たとえば、私たちが真理に仕える者だという。そうすると、私たちは真理の奴隷だと言われる。

 パウロはここで、二つの主人を想定して言っております。一つは神。もう一つは罪であります。神と罪。これは相反する二つの主人であり、それぞれに仕える結果は16節で言われている通りです。しかし17節。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

 義とは神の義のことです。マタイ福音書6章33節には「 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とある。山上の説教にも「義のために迫害される人々」「義に飢え渇く人々」が幸いである、と宣言される(マタイ5章)。迫害されても神の義を求めるほどに義に執着する、ということばにより、真実に義を求めている人、神の義を求めて彷徨うほどに真剣に考える、ということなのでしょう。

 パウロもかつて回心に至る、義に飢え渇く生活をしたのではないか。そうも思います。そこで導かれたパウロ自身が、律法の下ではなく恵みの下にいる生活に入りこの神の恵みの支配下におかれていく。そう向かわしめるものはみ言葉の力であり、聖霊を通して働きかける神の力であるのです。「あなたがたは罪から解放されて神の奴隷となり、義の奴隷として、聖なる生活を送りなさい(19、22節)」

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