2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 4章18~25節

説教要旨   今日のマタイ4章18~25節には20節の、「従った」という言葉が22節にも25節にも出てきます。それとともに、23節と24節のそれぞれの文章を締める「いやされた。」という言葉がある。今回の聖書の文の特徴は、端的にいって「従った」と「いやされた」に表されている文章である、そう分かるわけです。

 20節と22節で「従った」のは後々主イエスの弟子になった人たち、ペトロやアンデレ等です。彼らはイエスに呼びかけられて「従った」。しかし、25節にある「従った」人々は群衆であり、この人々は病気を癒すイエスの業を見聞きして「従った」のである。しかし大事なことは、こういうイエスの業の背後にも神の呼びかけ、招きがあることを受け取りたい。

 ヨハネによる福音書1章43節~には、弟子ナタナエルへの呼びかけがある。最初主を疑う者であったナタナエルは、自分のことを次々と言い当てる主イエスを神の子と告白し従うのであるが、主イエスは、ナタナエルのことを言い当てた業によって信じるのか(50節)」と問われています。大事なのは、主イエスが、ナタナエルに関わられた時点でもう既にナタナエルには主の呼びかけがあるのだと受け取ることでしょう。

 イエスの弟子たちに与えられたものは、『わたしについて来なさい』という呼びかけ、招き、そのものです。それは、神様の呼びかけです。ナタナエルのように、神のみ子の前に、私たちが一人の人間として出会うときにそれはいろいろな思いがあるのは明白なのです。しかし問題はそういった私たちの思いを超えて神は呼びかける、ということです。ゆくゆく主イエスを見捨てていくペトロを知りながらも、ああこいつはこんなやつだから、やっぱりやめだ、とはおっしゃらないのです。ペトロの人となり思いを超えて、まず神の呼びかけがある、ということ。それをこえて、神がひとりひとりとともにおられ、その立つ位置を知っておられ、心にある思いも知っている上で、一人一人に招きが与えられ、呼びかけが与えられているのです。

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